シュリ オーロビンド という聖人がインドにいた。 9月25日(火曜日)
ニューデリーに、その方のパートナーが設立された、
オーロビンド・アシュラムと呼ばれる、宿坊がある。
聖人オーロビンドの哲学を勉強したり、瞑想したり
して集まる施設だ。
私はここで、良く、この協会メンバーの手作りの
お香を買い求めた。
自然の香料で練り上げられた純性のお香で、アシュラム
で生活する方達が制作している。
この聖者の言葉を 今日は、ご紹介したい。
” Our outward happenings have their seed within...."
意味は
”現象界で起きていることには、必ず、その内側に種がある”
ということ。
”因果応報”、”蒔いた種は自ら刈り取る””自業自得” の言葉
が日本語にもある。
因や自業という言葉が、オーロビンド氏のいう、種にあたる。
その種がなんであるかそれを見分けるのが簡単なようで難しい。
現象界には、肉体の眼に映る事柄と、映らない事柄がある。
あるいはその両方が組み合わさったもっと複雑な現象もある。
例えば、花が咲いた、文字通り、その現象の裏には種がある。
(肉体の目に見える場合)
例えば、国家試験に受かった。
その現象の裏には、地道な勉学と、目標という強い意志の
種があった。
(肉体の目に見えない種)
例えば、自然災害が起きた。
その現象の裏には、低気圧前線や台風の発生があった。
だが、これらを、”種”と言えるのだろうか?
それが原因ではない。
原因は ”台風が室戸岬を直撃” したことだろうか?
否、”台風や、大雨を降らせる前線/低気圧” がどうして、
発生したかということだが、それは気象予報士も
答えられないだろう。
台風や竜巻や津波の、自然災害の種とは何だろう?
オーロビンド氏ならどのように答えるだろう?
他のインドの聖者が答えているように、こう答えるかも
しれない。
天災は人災だと。
天災の種は、実は私たちの心の中にあるのだと。
これは不可解な答えだ。
心或る方なら、この行間の意味合いを理解する。
私たちが、大自然の被創造物の一つであるという事実。
私たちの想いは、大自然に影響を与え、波動として
繋がっているという事実。
そして、そのことを忘れて横暴に、傲慢に、自然を破壊
することに無頓着になっている私たちもいる。
自然の摂理という言葉がある。
私たちにとって、一番大きな、自然の摂理は地球の
自転と公転が、規則正しく守られていることだ。
この摂理に反して、どこかが少しでも狂えば、私たち
の地球の安全は、ないかもしれない。
星と星とが衝突する可能性に、一喜一憂していては、
人類の生活の安定があり得ない。
人にも、生きて行く摂理がある。
自然と対照的に、その摂理を人間は守って生活して
いるかといえば、大いに疑問だ。
その摂理・道理とは何か?
世界中、それぞれの国に国教があり、どの宗教でも、
摂理に関しては、同様の内容だ。
例えば、汝、盗むなかれ、殺すなかれ、貪ることなかれ、
姦淫することなかれ、欺くことなかれ、などなど。
以下はモーゼの十戒といわれるもの:
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと
- 偽証してはいけないこと(嘘を言ってはならない)
- 隣人の家をむさぼってはいけないこと
仏教では、いかなる摂理があるのだろう?
八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、
正念、正定
を規定する。
それぞれ、正しい見方、正しい決意、正しい言葉、
正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい想念、
正しい瞑想にあたる。
回教やヒンズー教など、摂理の規定は これらの項目
とほぼ、同様だ。
倫理やモラルと呼ばれるものも共通する。
これらが、人の摂理だとすれば、その摂理に反したとき、
自然界はどのような影響を受けるのだろうか?
人間の摂理に反した集団行動は、大災害の種をまいて
いるというのが、答えである。
つまり、自然現象を異常現象に変え、自然災害などを
もたらす種がまかれていくということだ。
人の心が荒れれば、自然が荒れる。
人の摂理が乱れれば、大自然の営みも乱れる。~と
インドの聖者は説く。
古来、厄病がはやったとき、稲妻や日照りが、農作物
収穫にダメージを与えたとき, 神の怒りと恐れ、僧たちが
鎮めるための祈りをささげた。
だが、神は、人の罪に対して罰は与えない。
人間の集団行為のマイナスエネルギーの蓄積は、自然の
営みに影響を及ぼし、災害を生む種となる。
自分たちの行いを自分達で刈り取って、貸し借りゼロ
にするという、バランス修正原則だ。
”行いをバランスととる”考え方は 他宗教でも見られる。
たとえば、聖書には”良き行いを天の蔵に積む”という
比喩があるし、”悪い行いと善い行い(生前の)を天秤に
かける”(コーラン=回教の聖典)という比喩がある。
今風に言えば、銀行に善行をあづけて、悪行をしたとき、
その預金をおろして罰金を払い、最後に預金がなくなると、
その人の家や土地を取り上げられ、負のバランスに
充てられることになる。
そのため、家族まで離散する状態に陥ることもあるかも
しれない。
自業自得という言葉の意味は、”自分の業(行い)は
自分で得る(処理する)のが理である。”ということ。
聖者達は、自然災害を、そうした理由から、カタルシス
(浄化作用)とも呼ぶ。
人間が摂理を守らなければ、悪業(カルマ)が積まれ、
一定に達したとき、その悪業(カルマ)の自浄作用
として、悪(異常気象や自然災害)が表面化すると
いうのだ。
毎朝、神様・ご先祖様に、きちんとお勤めをして、
道を守り、愛顔愛語で日々生活しておられる方達は
摂理を守って生きているといわれる。
みんながそのような生活を送れることは理想だ。
残念ながら、毎日のニュースを見ている限り、そう
ではない。
中には、手を差し伸べておられる人も多くいらっしゃる。
中には、自分の生活とは関係がない、手を差し伸べる
ゆとりはない、自分の生活で精一杯だ~と割り切る方
も多い。
ましては地球の裏側で、多くの子供たちが飢え死に
していても、内戦で親を失った子供たちが、学校に
行けず、彷徨っていても、生まれたばかりの赤ん坊を
一本の注射針がなかったために、失った母親の慟哭も、
私たちの日常の生活には ほとんど届くことはない。
聖者は、”私たちは手のひらの指のようだ。
一本づつ離れていても、手の甲でつながっている。”
という。
他人と自分とはつながっている。
他人の不幸を、自分の不幸として、とらえて
あげられるか?
他人事としてみていないだろうか?
他人が摂理に反しているとき、それに対し
小さな声をあげることができるか?
それは過ちだと。
見て見ぬ振りをしていないだろうか?
自分は正しいからと、自己満足に浸っていないか?
連帯責任ということはどういうことか?
他人も自分の、根本は繋がっているという言葉、
手の指どれかが傷つけば、ほかの指がその負担を
強いられる。
誰かが不幸なら、自分もどこかで不幸に感じる
本来の心を忘れている。
自浄作用とか、カタルシス、あるいは、バランス
をとることという表現で説明してきた、大自然の現象だが、
自然治癒力セラピー当協会も、同様、唯心論的立場
をっている。
唯心論というのは、”すべての現象の種というのは、
私たちの心の中にある”
という考え方であり、病気に対しても、
~病は気から~という 一般的に私たちが使う言い回しも、
考えてみれば唯心論的発想だ。
唯心論とな何か?
”三界は唯心の所現” という言葉がある。
三界とは現象界の中の、欲界、色界、無色界をさす。
それぞれが、欲望世界、物質界、 ”受想行識界”のように、
感情を受けて造られている世界を意味する。
この三つの世界が、私たち生きている世界、現象界を
つくっているわけで、この世の中に現れる事象は、
結局、私たちの心の在り方が、
現象として、現れたものだという考え方 だ。
心の在り方とは、心の向き方でもあり、置きようでも
ある。
病も気から、という言葉通りに、気持ちの持ち方を変えれば、
病は好転したり、癒されたりするものなのだ。
環境は自分の心の向きようで変わるのだ。
さらに言えば、一人ひとりの心持は、自然界の現象
さえも動かし得る大きなパワーであるということだ。
”心”とはいかに壮大な、形無き実質なのだろう。
通常、日常生活を送る中、私たちは自分の心さえコ
ントロールできず、生きている。
感情とは馬のようなもの、本来の自分が手綱を持って、
方向を決めて暴走しないように気を付けなければ
ならない。
ところが、ほとんどの場合、我々が馬にひっぱられて
いる有様だ。
馬の手綱さばきを上手に運ぶためには、馬(感情)
の性質を知らなければならない。
そういう意味で、
10月から心の解剖をヴェーダの理論から切り込んで
いきたい。
自分が乗っている馬の手綱さばきは、結局
自分自身の手でする以外にない。
馬とは? 手綱とは? 御者とは? そのような事から、
一緒に考えていければと思う。
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