わたし達の心の願いはなんだろう?
欲求あるいは、本能的に備わっている要求だ。
まず、第一に 生理的欲求。
三大欲求といわれるもの、つまり、性欲、睡眠欲、食欲。
二番目の欲求は安全欲求。
”不安を回避した安全な環境や場所” を必要とする欲求である。
三番目は人間交流関係への欲求。
他者との交流をはかるため、組織に所属する。
”愛情、友情” をわかちあいたいという要求。
四番目は、自尊欲。
誰でも、軽んじられたり馬鹿にされたりすることは 耐え難い。
”尊重されたい” と願う気持ちである。
五番目は、認識欲求。
自分を理解してもらいたい、あるいは他者を理解したい、
そして、もっと、探究してみたいという好奇心を含む、
”自分の世界を広げ” て、認識されたいという要求。
六番目は美的欲求といわれ、
美しいものに対する意識を満足させたいという要求だ。
対象物は無形有形に限らない。
一般的には、芸術鑑賞で満たされる。
あるいは、倫理や秩序あるものへの美と憧憬につながる。
最後の7番目の欲求は ”自己実現” と言われる。
自分が一番自分らしく満足できる状態、その自分を実現
したいという要求。
それは作品の創造につながる。
自分を表現したいという内面の要求。
この7つの要求は我々が生きているなかで必要不可欠な
基本的要求だ。
それでは、要介護の方達のそれは どこが同じでどこが異なる
のだろう?
Naomi Feil女史はその著”The Validation Breakthrough "
のなかでいくつかの特徴をあげている。
三大本能欲求と安全に対する要求は変わらない。
ただ、三番目から認知症の特徴的欲求が出てくる。
人間交流の要求が、認知症患者の場合、”愛されたい” 欲求、
または、”一緒にいてほしい”要求に、変化してくる。
相手とのコミュニケーションを楽しむという相互関係ではなく、
むしろ、一方的に、愛されることを要求する、
病院や施設に 家族と離されて、一人置き去りにされるのが
怖いのも、この愛されたい要求が満たされなくなるからだ。
周りのスタッフの方達が一緒にそばにいて、安全が確保され、
一人ぼっちにはならないと理解できれば、次第に心は落ち着く。
老人は幼児化するというが、まさに、そばから離れないでほしい
という、幼児が母親に愛情を求めるような、形が三番目の要求だ。
四番目の自尊欲は、認知症の方の場合 自分の言うことや
動機などを承認して、認めてもらいたいという要求に微妙に
変化はする。
根本的には、自尊欲を満足させるという意味では変わらないが、
話の途中で 相手から、否定的な反応を受け取ると、
とたんに心を閉ざしたり、怒り出したり、感情的になるのも、
承認してほしいという心が否定されたように感じるからだ。
五番目は 現実逃避欲求という。
一般者が自分の世界を広げたい望む代わりに、 認知症の方は、
自分の安全な居心地のいいところを探す。
その結果 現実の非快適さから逃れたいという要求に変わる。
六番目は平常心に戻る要求だ。
体の機能が低下していく事を自覚している認知症の方は、将来に、
言い知れない恐怖心を感じるものだ。
自分はどうなっていくのだろう? このまま、どこまで、
身心が崩壊してのだろう?~と。
私の母の場合、電話をまともにかけられなくなった時、
イライラの極限に陥ったことがあった。
何度か間違い電話をかけた。
それは、視力の低下で電話番号を識別できないことと、
せっかちのあまり、番号の押し間違いが原因であったが、
冷静さを失って、自分の無能力さに匙を投げたと言って
怒り始めた。
私が代わりに番号を押して、一段落した。
翌日 母が私に言った。
”私が荒れたら、あなたが、~お母さん、今、何かに
憑依されているみたいに、お母さんらしくないわよ~と
教えてね。
そしたら、自分に戻るよう努力できるから・・・” と。
このとき、平常心に戻りたいという要求が 母の心の
どこかで生まれていた。
皮肉なことに、興奮しているときは 何をいっても無駄である。
”お母さん 今、銀ばあ様(母の祖母)がお母さんに
憑依しているみたいに・・”と 約束通り、声をかけたら、
”銀でも金でも角でも(将棋と勘違いしたらしい)、どうでもいい!”
とスリッパが飛んできた。
だからといって 母が私に頼んだことは嘘だったのかというと、
それも違う。
本人の心のどこかで、荒れている状況から出たいという魂の
本然の要求が必ず生きている。
平常心を回復すれば、現状をある程度 ありのまま、受け入れられ、
コミュニケーションをとることができる。
最後の七番目の要求は安心した心持で”
死をむかえたい”という要求。
思い残しや やり残しがないように、また、長患いで
周りに余計な負担をかけないように死ねたらという欲求だ。
寝たきりにならないで ぽっくり行きたい という言葉を
母からも よく聞く。
万が一、寝たきりになっても、自分は見放されないこと、
十分ケアーされること、
寂しい境遇にはならないこと、いつも、
誰かがそばにいることを日頃から話して、母の潜在意識に
残っていれば有難い。
何より大事な事は、母の周囲の人たちは家族も含めて、
”あなたに、長生きしていただきたいと願っている”
ことを、理解してもらうことだと思う。
”私なんか、早く死んでしまった方がいいと思うでしょ?
長患いしたり、ぼけてしまったりしたら・・・”
と不機嫌な母は、むきになって、
捨て台詞のように言うことがある。
それが脅迫的被害者意識から来ていること、本人は気がつかない。
母という存在が世界には一人しかいないこと。
母と呼ぶ人を誰が疎ましく思うだろう。 母がそれを
信じられないのなら、愛情不足が起因しているのかもしれない。
きっと、母の幼児期からもの心つく年頃まで、戦争という
無常(情)で過酷な生活背景の中、
大家族が、互いに愛という心持を
投げかけ確認しあう余裕が少なかったのだろうと、
憶測している。
以上おおざっぱな見方ではあるが、人間の欲求の基礎は
健常者も認知症の方達もあまり、変わりはないと感じる。
あるとすれば、自分自身の今後の不安と身心ともに、
コントロールがきかなくなるという恐れの増大。
そのため、介護人や家族の愛情を、これまで以上に欲している
ということかもしれない。
決して相手の言葉を否定をしないこと~と母の
ケアマネージャーの方に、
認知の母と向き合う時の不文律を教えていただいた。
”相手から受け入れられたい” という 4番目の要求を
満足させてあげるためである。
認知症の方達の中には、パニックに陥ったり、暴れたりする
方達もなかにはいる。
そのような時に、平常心に帰りたいという気持ちが、あるのかどうか?
わたしは信じたい。
どんな状態の人の心にも、自分を第三者的に見る目はある。
それはまわりの私たちに気が付かない状況でかすかに
働いている程度かもしれない。
抗鬱薬や、テンションを下げる薬を飲んでいる方達の場合
自律神経が薬でコントロールされているので、自然治癒力の
発動は難しい場合もある。
だが、それでも、やはり、魂が生きている以上、上記の要求
はいつでも、稼働する状態であることも確かだ。
具体的に言えば、植物人間になったことのある人の証言だ。
自分の身体が全く融通が効かず、寝たきりのいわゆる植物人間
のような状態で入院していた。
その際、周りで看護してくれている人たちの話の内容は理解
していたということであった。
看護婦さんたちの噂話、お見舞いに来てくれた知人と家族との
会話を、記憶までされていた。
微動だに動かない肉体と何も反応のない無表情な顔。
心まで活動していないと思われていた人でさえ、第三者の
眼を持っていた。 魂の耳といってもいいだろう。
現在、私の一番のご高齢なクライアントは、90歳を過ぎている
女性である。
要介護5の方だ。
すでにセラピーをさせていただいて、数年たつ。
ご家族は 家族のお名前を忘れてしまった 老齢のお母様に対して、
一人の人格者として、対応される。
第三者の眼を持っている方として、一緒にお食事し、ひ孫さんを
抱っこしてもらい、歌を歌って お母様の魂に敬意を払って
接している。
お母様は、髪の毛も黒く、ふさふさとして、、肌もつやつやされている。
私たちも、日頃から、この第三の眼(傍観者の眼)を鍛えて
いきたい。
そうすれば、後年、認知症になる確率も減るだろうと 想う。
その理由は、
その眼を鍛えていることで、感情の波(パニック)に陥っても、
混乱している自分を演じている役者として客観視できる。
すると、パニックを演じているのがばかばかしくなるだろう。
裁判官のような眼で、冷静に動きを見渡しているという意識がある。
全体を冷静に見れるので、何をすべきかもわかってくる。
人間関係のトラブルでは、第三者的な冷静な眼で 状況をみると、
複雑な背景が単純に見えてくる。
頭の体操というのが流行っているが、このように、日頃から、
第三の眼を鍛えておくことも、
一つの体操だろう。
認知症予防に、役立つ以上に、私たちの日常生活の潤滑油に
なることも受け合いだ。
注] ここでの第三の眼は ヨガや神秘主義者の間で使われる、
眉間の間にある目とは違います。
第三者的に状況を見据える目という意味で使っています。
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