”久遠”と”永遠”の違い。 9月22日(土曜日)2012年
***************************************************
”久遠の今”という言葉は聞きなれない方が多いと思う。
久遠と永遠とは違う。
永遠は、時間の推移だ。
久遠は、時間を超越している。
円の中心点を思い浮かべていただきたい。
円の中心から半径を決めて一回りコンパスを動かすと、
最小の円から、
無限大の円まであらゆるサイズの円が書ける。
この半径を時間と仮定していただきたい。半径はいくらでも
延ばしたり縮めたりできるが、円の中心は動かない。
中心が動くとぶれてしまい、円は描けない。
さて、この円の円周に枠取られた領域を”空間”と仮定する。
”空間”も”時間”と同様、いくらでも 拡大したり
縮小したりできる。
宇宙大の無限の大きさから、電子大の微小なサイズまで
自由自在だ。
この中心点に もし、私たちの心の注枢軸のピンを留める
ことができれば、時間や空間に、左右されない境地にいたる。
そこが久遠の点になる。
久遠の点に留まることができれば、”時間” にも”空間”
にも影響されないのと同時に、時間の長さも空間の広さも
自由自在にコントロールできる。
身近な例でいえば、4畳半の茶室が宇宙の空間の広がりを
感じさせたり、長時間が ”あっという間にたった”という
感覚は、時間も空間も相対的で
あるという良い例だろう。
深く集中したり、観想でこの久遠の点に意識を持っていく
と時間や空間の認識を忘れている体験はどなたもあるだろう。
2面的な円の中で、時間と空間を規定するには、コンパスの足の
長さを調節すればよい。
ただし 中心点が存在しなければ、コンパスの足の長さを決めても
円は描けない。
この中心点は、精神的な世界にもあり、この点を空の点 と 私
は、考えている。
般若心経でいうところの、空(くう)。
そして、その ”空の点”に 時間と空間の無限の拡がりの認識が、
含まれていると思う。
私たちが瞑想するとき、想念をどこに向けるのだろう?
無心になるということはどういうことだろう?
何も考えなければいいということだろうか?
何も考えないのと、無心になることとは、違う。
その理由は空の点、久遠の”今の点”に意識をおいているか
どうかの差があるからだ。
無心になるとは、この、”空の一点”、”真空の点”に意識を
集中すること
なのだ。
般若心経でいうところの、”般若(悟りにいたる大いなる叡智)”
で知る[観じる]ことのできる 空(kuu)・久遠の今 、
久遠の今にいる、本来の自分を、観想することで、現象世界に
生きて居ながらにして、瞑想中、時間と空間で制約されて
生じる感情や執着の束縛から解放される。
私の尊敬する先生は無一文の時、愛する女性に結婚の
申し込みをなさった。
”生活はどうするのですか?”という女性の問いに、
”神様が何とかしてくれるでしょう。大丈夫です。”
と答えられた。
それで、十分な答えだったと、奥様は回想される。
宇宙の意思、神、大生命の意思、いろいろな呼び方があるで
あろうが 何よりも、久遠の今 を生きているという意識を
明確に持てる、先生に奥様は、従っていかれる決意をされた。
私たちは ”今” を 生きているだろうか?
今を生きる とはどういうことなのだろうか?
”ほとんどの人は、今を 未来へつなぐ手段として生きている~”
と先生は言う。
私たちの多くは、”常に先を見つめて” 今を生きるのであって、
”今を生きている”人は少ないと。
多くの人にとって、”今” は先に進むための ”経過道” にすぎない。
現代の子供達と親の意識は・・・・小学校から塾に通わせる。
泥んこになって土や草の匂いを知らずに、机に向かう。
”名門校”へ進むため。
中学・高校と偏差値にゆすぶられながら、大学へ進む。
安定した会社の就職口を探す。
生活費というサラリーを保障してくれる会社。
安定した経済生活を保障してくれる伴侶(女性から見て)、
エリート意識は、競争に勝った人がもてるもの。
セレブな生活は、その競争の代償。
庭の片隅に、小さな野草が花を咲かせていても、雨あがりの
芝生がキラキラとまばゆく光っていても、若木が青々とした
枝を伸ばしていても、
”今を手段”として、生きている人には あまり、意味がない。
次の手段を考えながら、四季の移り変わりに潜む、
大自然の真心に、心を留めず、足早に通り過ぎていく。
”今を手段にして生きていること”に気が付かなければ、
”久遠の今” を味わうこともないかもしれない。
”今の今” を生きているとき、当たり前の光景が当たり前
でなくなるかもしれない。
家族との団欒、かわいいペットと交わす無言の会話、
散歩中の空気の香りと季節の足音、何気ない、友人の
思いやりや仕草、太陽の光を反射する露、
小さな芽をもたげた花壇、夜明けを知らせる、野鳥の声、
一日の労をねぎらう、鈴虫の鳴き声・・・
我が家には、丹頂流金の’ちび君’が悠々と水槽を泳いでいる。
5年も我が家の一員になって、今では、筆者のこぶし大ぐらい
にまで生長した。
”君は退屈じゃないの?
水槽の中を毎日毎日、泳ぎ回っているだけで・・・”
答えが返ってきたような気がした。
”~いいえ、僕には、”今” しかないから、”今”を
楽しんでいるから、
”今”生きているから、それしかないから・・退屈ってな~に?”
人間以外の生き物たちは、’今を生きている’という。
今を生きているから、計画を立てながら 今を手段にして
生きる才能はない。
だから、犬も、金魚も、”過去も未来の観念は無い”ようだ。
”今しかない”から、”久遠の今” を生きているのだろう。
だから、彼らは、人間のように、老いた顔にならないのだろう。
久遠の今に生きるものは、”年を取る” という観念が無いからだ~。