カナカナカナのお話し
9月13日(木曜日)~夏も去りかけて~
”オーシンツクツク オーシンツクツク オーシンヨー
オレシイヨウレシイヨ:ツ~~”
”ミ^ンミ^ンジ~~~ジ~ンミ~ン
meen meen meen mi~~~”今は朝8時半。
9月に入って中盤を迎えようと
しているのに、元気な蝉たちの声である。
”啼く”、”鳴く”~二つの漢字は、彼らの声にそぐわない。
彼らは、何年も地下で過ごし、地上に出てきて
一週間ほどでその一生が終わる。
種族を残すために残されたわずかなひと時を
尋常でないエネルギーを使って
”なき”つくす。
その鳴き声が私には、高揚した臨場感とはかなさの
協奏曲のように聞こえる。
だから、”泣” いているように聞こえてしかたがない。
彼らの最期は、余計に壮絶だ。
苦しいのか断末魔の末なのか、狂ったように、
バタバタ~じーじー~と、
羽音と腹底から声を出して、そこかしこに”泣き”
ながら 低空飛行で体当たりしている。
束の間に、静かになったと思えば、階段の踊り場や
ベランダの片隅に 泣きがらとなって横たわっている。
ほんの時折、夕方 ”カナカナカナ・・・”と
歌うような声が聞こえる。
風情を誘う音色だ。秋風も誘われる。
そして、小一時間程度で、chirichiri ji^ji^,スイッチョン
スイッチョン と 秋虫が草陰から一斉に、鳴き始める。
”カナカナ”は ”日暮し” といわれる蝉カナ?
西行法師の ”もののあはれ” の風情を想いだす。
…秋は来にけり・・・日暮らしという名前にも趣を
感じる。終日沈黙して日が沈む前のひととき、声をだす。
その日を 生きていた証のために。”泣く” のではなく、
これこそ、 ”啼い” ているのだ。
自分に残されたわずかな時間を 静かに受け止めて、
黄昏の中で、味わい尽くすように:かなかなかなかな・・・・・・
おもわず、人の命と重ね合わせる。日暮し蝉の歌は、
切なくも、美しい。私たちは最期の最後まで、かれらのように
歌い続けられるのだろうか?鳴くき尽くせるのだろうか?