自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

インド 古典書の”ラーマヤーナ”に見る 桃太郎と鬼ヶ島のモデル?

2012年11月15日 | 自然治癒力とヴェーダ哲学の関係

 

10人の妻と感覚機能の喩  11月15日(木曜日)

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古代インドでも感覚の奴隷になり、愛する息子まで失った

国王がいた。

その王の名前はダサラダ王という。


彼には3人の妻がいた。

一番若くて美しい三番目の妻を寵愛したあまり、

その妻の要求に答えて、王は別の妻から生まれた、

愛する長男を森にと追放する。 


その後、息子との離別によって、さまざまな不幸に

見舞われ、王は深く悔いるが、その発端は美しい妻

ご機嫌をとるためだった。


妻の願いをかなえるために、理性を失った結果だった。


 この王様の息子が、人望厚く神格化される 

ラーマ王子である。

この話をもとにラーマヤーナが書かれた。


この話はちなみに、アジア各地にも伝わり、

インドネシアやタイでは影絵や踊りなどのモチーフ

として現代にいたるまで上演されている。

 

日本では ラーマ王の物語は桃太郎の原作では

ないかという説もある。

ラーマ王子は 自分の妻を誘拐したラバナという

スリランカの王を倒すために海を渡り戦う。

その時に猿が大活躍する。 


ラーマ王をスリランカに安全に導く。

この猿が神格化されて忠誠の代名詞となり、

ハヌマーン神と呼ばれる。


ラーマが桃太郎ならば、鬼ヶ島がスリランカ島、

鬼はランカ王にあたるだろう。


犬(忠僕の意味)と雉はハヌマーンが一人二役

(犬と雉役)を演じているわけだ。

犬という忠僕さと、雉という空を飛ぶ能力を

兼ね備えた臣下(猿)としてハヌマーン神は 

ラーマヤーナの中に、描かれている。

 

日本では、ハヌマーン神は猿田彦神と共通点がみられる。

巨漢で力持ち、ラーマ神をランカ王のもとに海を

渡ってはるばるインドから異国の地へ無事に導いたように、

猿田彦神も道案内の神様として神道では祀られている。

 

10人の妻と感覚機能

さて、3人の妻をコントロールすることが難しかった

ダサラダ王、それではもし、10人の妻がいたら、

一体どうなるのだろう?

実は誰にでも10人の妻、または恋人がいる。


それは5つの感覚器官と、それによって支配されて

いる5つの行動器官をあらわしている。

 それぞれの器官は一つの役目をはたす。


その役目によってもたらされた情報をもとに、

行動することをその感覚器官の機能とする。


だれでも5つの感覚と5つの行動機能、計10人の

統御すべき妻がいるということになるわけだ。

 

食事をして美味しいと舌が判断すると、もっと

食べたいと欲求がますだろう。

その欲求が高まると、食べるという行動に移る。


良い音楽を聴いたとき、心が癒されその演奏家の

CDを買い求めるだろう。

じっくりと味わうためにコンサートに足を

運ぶかもしれない。耳の感覚機能が働く。


かぐわしい香に惹かれて自分に合う香水を探す。

人によって選ぶ香水が違うのは、その人の好み

によるが、好みはその人の嗅覚の感覚の違いである。


このように見る、聞く、嗅ぐなどの、五感で得た

快感にしたがって、その快感を もっと満たすため

の行動が起きる。


そして五感の快感の追及が始まり、それが過度に

なったとき、いろいろな悲劇が生まれるのは、

古代インドのダサラダ王の時代と、現代もあまり

変わりはない。 


馬が感覚器官であるなら、その馬を統制するのは誰だろう?


御者(ぎょしゃ)が手綱をしっかり持って馬車が

転倒することがないように絶えず注意しなければ

ならない。

御者とは、自分自身の魂である。

 

 感覚器官と感受性 

感覚で受け止める感性が強いほど、感情表現が豊かと

いえる。

相手に対する心使いができる人も、敏感すぎれば、

神経質と形容されてしまう。 


逆に感受性が乏しい人は、その場の空気を読むのが

苦手なようだ。

感性が他人と比べて弱い場合、人の苦しみや悲しみ

の共感が少ないかもしれない。


いずれにしても、感受性は五感から摂取した対象物へ

の心の反応といってよいだろう。


ヴェーダでは感受性を生む諸感覚を馬(アスワ)

に例えている。

 なぜ諸感覚をアスワ=馬に比較しているのかと

いえば、馬の習性が諸感覚と似ているからだ。

 

馬はたえずどこか、体の一部分を動かしている。

しっぽや脚、背中や顔などどこか動かしていて、

落ち着いていることがない。


つまり、私たちの諸感覚もそれに似て、絶えず、

揺れているということからきている。

 友人と真剣に話し合っている時に、ふっと、

昨日の料理や今夜のおかずのことが頭に浮かんだ

ことがあるかもしれない。

 

討論しているとき、最近、恋人から言われた言葉

を何気なく回想していることはないだろうか?


 そのように、心が一瞬 ふっと、自分の集中

していることとは無関係な方向へ動き、かた向いて

いくことがあるだろう。

 

このように、諸感覚は常にいろいろなヴィジョンや

刺激を頭に伝えて心を動かしている。

 

感受性がもたらす感覚は、5つの感覚機能を

とおして伝わる。

でもこの感覚器官にはそれぞれ制限があり

一つ以上の役割は果たせない。


 眼は見るだけ、鼻は匂いをかぎ分け、舌は味わい、

耳は聞くというように、鼻で見たり聞いたりできない。

 

5頭の馬によって、私たちの肉体はひっぱられている

ように、5つの感覚器官から入ってくる情報が

心を常に、揺れ動かしている。


 ヴェーダに インド古代には感覚を統治するために、

国を治める者たちは犠牲祭を行ったことが記述

されている。


それは、アスワ・メーダ・ヤーガと呼ばれる。 


 (アスワ)を生贄(いけにえ)として捧げ、

アスワメーダという諸感覚に惑わされる弱い心が

抑えられることを神に祈った。


 時の勢力者たちは、自ら、デーマンタ

(馬=諸感覚、を正しく扱い統御できる人)となることが、

正しい方向に国を導くために不可欠であることを

知っていたのだ。


デーマンタ になること、これほど難しいものは

ないかもしれない。


感覚を制御するどころか、感覚に引っ張りまわされて

いつの間にか馬のいいなりになっている事は多い。


馬に引っ張りまわされて、統制の聞かない馬車に

乗っていることもあり得る。


“~過ぎて失敗した、”と反省するときは、大概

この馬の暴走による場合が多いようである。


食べ過ぎておなかを壊した、

深夜までヴィデオを見過ぎたため、翌日眠たい、

など、何かに無中になりすぎて自制心を失なって、

後から反省することは多々あるものだ。


 それではその御者がしっかりと仕事をするのには

どのようなことが大切なのか考えてみたい。

 


続く・・・・

 

 

ヴェーダの扉にようこそ・・・ 
今日から何度かにわたって、扉があきます
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