ユングが認めたチベット死者の書~死後1日目~11月12日(月曜日)
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チベット死者の書を般若心経の扉のカテゴリ―に入れた。
理由は、般若心経でいうところの 空 の自分、
自分の本質を見据えなさい と
死にゆく人に僧侶が伝える書として書かれているからだ。
今日から数回にわたってこの本の概略をご紹介したい。
チベット死者の書と訳されているが、もともとは
”バルド・ソドル” と言うチベットの密教経典で
日本では おおえ まさのり氏が翻訳されている。
用語は おおえ氏の訳を参照させていただく。(*1)
バルドの意味は中陰であり、
これは仏教でいうところの49日(死後)の期間をさす。
この間に死者に向かって成仏できるよう、導きを行う。
チベット密教ではこの経典は般若の智慧ともいうべき、
悟りと解放を得るための最高の経典でもあるのだ。
人間の存在とは何か?
完全な叡智とは何か?
その叡智をもって、解放されるとはどういうことか?
般若心経が生きて修行する人のための経典だとしたら、
バルド・ソルドは死者のための聖典ということになる。
つまり、死後の世界にどのように、死後対処すべきか、
どうしたら、生まれ変わるときに適正な世界に行けるか
或いは、輪廻の法則から解放されるのか?
それらの智慧が秘境のチベットで千年以上前からこの聖典
によって言い伝えられてきている。
チベットの信仰において、死者は肉体を離れて、
さまざまな幻覚を見るという。
光や、恐怖、様々な色合いに満ちた、イル―ジョンだ。
光りを信じ切れるか、
自分のアートマを見つめて自己信頼に徹することができるか?
あるいは 幻影の恐ろしさに誰かの子宮に逃げ込むか?
ドラマチックな様相でその模様が描かれる。
前者は、自己の悟りを開いたものとして、
生まれ変わりの輪廻からはずれるし、後者は再び、そのサイクルの波
に身を任せる運命となる。
この聖典が世界に公にされた歴史はまだ浅い。
1927年に、オックスフォード大学教授 イヴァンス・ウェンズ博士
とラーマ・カジ・ダワ―サムダップ師(チベット語学権威者)が
10年かけて研究して、発表された。
著名な心理学者C・ユング博士は次のように語っている:
”初版以来、この書は私の手引書となっている。
”エジプト死者の書”と趣を異にする”チペット死者の書”は
人類へ哲学をもたらした。
その哲学は仏教心理学上の論評の真髄を含み、
人々はこれを本当に比類なく卓越したものだと
認めるだろう”
この書の中で、
リアリティー(実在)という言葉がキーワードとして使われる。
これは、実在、アートマ、空 など、
存在するエネルギー体としての本質的生命力をさす。
たとえば、第一巻では、このリアリティーを おおえ氏の訳で
”死後の世界で聴くことによる無上の助けである” と表現し、
死者は絶えず、リアリティーの響きに最大の注意と集中をすることで、
迷いうことなく解放へ導かれるとしている。
一つ注目すべきことは、
死ぬ前から、死後のプロセスへの勉強をしている者は、
死後、らくに光の導きに死者の魂を任せる事ができると言っていることだ。
そのために
”生前に実修によって予備の導きの書を修得されるべき”
と 書では、述べられている。
死者の死後のプロセスと
その時に使うマントラ(密呪)を知っていれば、
立ち会っていても、死者があの世への有意義な
旅立ちの助けになると言っている。
その密呪とは、バルドの恐れからの保護を求めるマントラ、
バルドの危険に満ちた狭い道中からの救済のマントラなど
種々あるようだが、ここでは、省く。
重要なのは、マントラの勉強ではなく、
そのマントラの意味する内容だから。
その内容に関連してお話しをすすめていきたい。
1) 死の瞬間に 最初の光が現れる
生前にこの光についての知識があった人は
容易にその光に導かれるという。
その時にマントラを死者の耳元でささやくが、
精神生活の師、あるいは、信仰上の兄弟たちなどが行う。
死者の呼気が終わった瞬間、
”生命力は中枢神経の中へ沈んでいく”
”生命力は後方へと投げ出され右と左の神経を通って
下方へと飛び、中間状態が次第に明らかになる”
とあり、
”生命力が臍の中枢神経を横切り、
左の神経の中へと走りこむ前に適用されるべき”
だと、マントラを唱える時期を設定している。
そのマントラの内容は、
”すべての事柄は、真空で、雲のない天空のようである。
裸の穢れない知性は、中間状態でのリアリティーである。
中心のない透明な真空を経験しようとしている。
この瞬間に汝自身を知れ。そして、その状態にとどまれ”
という内容である。
これらの導きは
”黄身がかった液体が体のいくつかの開き口から出てくるまで”
おこなわれる。
やく3,5日この状態でとどまるという。
この記述を読んで、私は、愛犬の死を想いだした。
確かに、彼女は浴室に横たわり、息を引き取ったかと思うや否や、
黄色の液体が体から噴出した。
口や肛門、耳?
記憶に定かでないが数か所の体の穴から噴出した。
小さな噴水のようだった。
異様な光景だったので今でも覚えている。
人間もそういう状態になるのか?
死者の書では、
” 邪悪な人生を歩んできた人々”の場合、
黄色い液体の流出は食事をするのに必要な時間ほどで
完了するというから、人によって、異なるようだ。
死者の書 では、死に行く人が
”自分が他界する” という意識をしっかりもって、
あの世でも 惑わないように 言い聞かせる言葉を紹介している。
”けだかく生まれたものよ。
今 汝にやってきたものは死と呼ばれるものである。
次のように決心せよ。”
”唯一である完全なものに、
私のすべての力を向けることによって、
すべての人類の善のために、天の限りない広がりに住み
完全なブッダ・フッドを得るように努めよう”
唯一である完全なもの、
これにすべての力を向けて集中し、一体になれと説く。
それが自分本来の姿であるということを認識していれば、
怖がらずに成し遂げられる。
そうでないと、恐怖が生まれてきてしまう。
さらに 死者の耳元で続くマントラは、
明瞭にこの言葉を繰り返すように指示する。
”けだかく生まれたものよ。
本性が 空 、将来の 空 であり、何等かの特徴や色へと
形作られない、汝の現在の知性は実に リアリティー、全なる善である。
何もない 空 としてではなく、至福に満ち、知性それ自身として
みなされる空である、
今の汝は 全善の、ブッダ(悟ったもの)である。”
これは、般若心経の中で定義されている、空 そのものの、観念だ。
善が全てである、悟った本性の、空の点である、汝の
実在(リアリティー)を、チベット密教らしい別の表現で言い表している。
それをさらに裏付けるように次のマントラが紹介されている。
”輝き、空 であり、発光の無上の体から出る汝自身の意識は、
誕生も死もない不変の光~ブッダ・アミターバ~である。
これを知れば十分である”
真言宗でいうところの、最高の仏様 阿弥陀如来 を
ブッダ・アミターバと梵語でいう。
つまり、死者は、すでに 本然の仏性、阿弥陀如来の資質こそ、
自分の本体であることを知れと いうのが、マントラの意味となる。
続く・・・・・
*1”チベット死者の書” おおえまさのり訳 講談社 昭和56年5月 (第五刷)