自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

チベット金剛密教”死者の書” は プライド高い僧侶や知識をひけらかす学者のために

2012年11月14日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 初七日(しょなのか)の意味 11月14日(水)

 

 

昨日の続きから・・・                                                    

第8日目から第14日目まで)

”初七日” が大切な意味を、仏教信者の葬儀では意味する。

それは、この段階が、浄土彼岸にたどり着けるか

どうかの瀬戸際だからだと、チベット金剛密教では説く。


その間、救いの導きが7回訪れる。 

その光に乗れたか乗れないかが、最重要 になる。


その光に乗るためには、死者の本質の如来心を

自覚できているかどうか、死者が 困惑のままでも、

大日如来や阿弥陀如来に、祈りを純心に捧げられたか

などが、要となる。 


ここで救われない魂は、無智と幻覚と悪癖への

(この場合、嫉妬や愛欲、物質への愛着などを指す)、

執着があまりにも強いからだと”死者の書”ではいう。


こうして 初七日の 救いの光に気がつかなかったり、

受け入れられない、救われなかった魂は、

異なる神々の姿を目の当たりにする。

 

初七日で訪れた平和な神々は、”憤怒の神々”となる。


その描写 は、 以下のようだ。(*1)

”炎の暈(かさ)を持ち、激怒した血を飲み干す

58の神々が、次第に姿を現してくる。


かれらは以前の ”平和の神々” が死者のバルド体の

心霊神経センターに従って変えられた死者の影である。

それにもかかわらず、かれらは非常に異なった姿を

している。”  

 

バルド体というのは幽体のことであろう。 

肉体はすでに荼毘 (だび)にふされたのだから。 

こうして、死者の魂は恐れにおののく。 

幸いにもし、彼らが生前に、これらの

”血を飲み干す神”を礼拝したり、

像を見た記憶があれば、恐れは軽減するという。 


なぜなら、恐ろしい形相の神々が、地獄からではなく、

平和の神の変装だと気が付くからだ。

 

以前、ブログで、黒魔術(前・後編)の体験

(平成24年10月26・27日)で、私の、インド16年間滞在中

最も、最後で厳しい修行体験お話しさせていただいた。


その時、パールヴァティー女神、ドルガ女神 

カーリー女神、3女神に触れ、三位一体の

女神について、書いた。 


カーリー女神は髑髏(どくろ)を首に巻き、血の滴る

形相をしている。

平和的な女神の異なる姿でもある。


それと同意味で、死者をむかえに来た、平和の神 も 

死後7日以降は、憤怒の神として現れるという。

 

ここで死者の書は、

”このバルドの教え(死者の書)に導かれずに 

戒律を律する僧院長や宗教哲学博士たちは、

生前には 公然と師と認められ、教理の解釈には

たけていているかもしれない” 

が、 

”死後の現場では 必ずしも救いの光を見分ける

ことができるとは限らない” 


と死者の書に述べられている。

  

つまり、 死後の世界で 繰り広げられる 

カルマ劇場を理解して、きちんと立ち回るのに、

理論や学問上の知識は役にたたない。


では、何が最も必要なのか?

死者の ”内なる仏性から来る救いの光” を理解し、

この神秘的教理を実行できるためには、

生前の自分自身への認識” が もっとも

必要だというのだ。

 

だからこそ、死者の書 では、生前、

”洗練されていない” ”勤勉でない” 

”世才ない(世間的にうだつがあがらない)” 

”粗野な性癖” 

とみなされていても、、上に述べた、神秘的教理

の本質を胸に秘めていれば、初七日の段階で、

救いの次元に身を置くことができるという。


逆に、一般の人たち以上に、自分たちは、

神を知っていると自負する、僧院長や哲学博士、

知恵ある人たち、神秘的教理を知らない神秘家達は、

なかなか成仏できないので、この死者の書

読むべきだと言っている。 


逆説的に聞こえるが、死者の書は、生前、

自己のアハムカーラ(自負心・プライド・自我意識)で

膨らんだ、教義を暗記していながら、本質的自己

(アートマ)を認識できないで 生きてきた僧侶や

哲学者たちの導きの書であるというのだ。


 

無上の完全”や、”無上の象徴”(ヴェーダでいう

ところのアートマ意識) に 心のアンテナを

張ってきた人々は、死の瞬間に、原初の光 

を見分け認識し、認識して、その光を受け入れ、

即、悟りの境地にアセンションするという。 

 

この ”無上の完全” こそ アートマの資質である。 


また、”無上の象徴” は般若心経でいうところの

”空”(くう)である。

 

ここでは省くが、この間(死後8日から14日)、

僧侶や家族が死者の魂に 救いの光に

振り向くようにと、呼びかけ、その光を

みわけるための蜜呪(マントラ)がある。


それらを語りかけ、死者に どのような

憤怒の形相の神々が現れても、避けずに逃げずに、

その神の示す方向へ顔を向け光りを浴びよと説得する。

 

様々に扮装した神々:たとえば、”黒いかっこう頭” 

”黄色い山羊頭” や ”赤いライオン頭” 

あるいは 黒い蛇頭” の神秘的な女神たちや 

血を飲んでいる神たち”、”死の神” などが

次々を死者の前に姿を現す。


死者の書 では それらの恐怖を誘う神も、

死の神” もまた、”汝自身の知性の発光”としている。 


つまり、私たち自身の知性が変装した姿である。

すべては ”自分から出ている”、という 

”唯心所現” は不変の真理である。


現象世界でも、あの世でも、自己の周りに発現

していること、それは自分の心の鏡だ。

どんな姿の顕現でも、恐怖を誘う神々が 

自分の知性の発光”として捉えられるのなら、

現象世界の不幸も、ある意味で、”本質の裏返し

として捉えることもできよう。

 

私たちの周りの状況は、私たちの心が造り

だしているのにほかならない。

それは現世でも 来世でも、死後の世界でも、

同じらしい。 

 

 

こうして死者の書は展開していく。 

ここで一般的にいえるのは、生前の実修が

ものをいうということだ。  


それは”自らの存在の真の性質を認識” した人は、

死の瞬間大いなる光が現れたとき、無上の至福

を感じるという。


当協会で”自己とは何か?”の問題を突き詰めて

いきたい目的もここにある。

現世での自然治癒力の発露だけでなく、

来世の幸せのためにも・・・


最後に 死者の書 から ”死神の訪れの際

の心構え”を多少文章をわかりやすく変えて

引用させていただく。(*1)

 

”(死の神)が現れてくるとき、汝はおびえ、

恐怖するなかれ。 


今の汝はカルマの性癖の心霊で造られたからだ。

切り殺されてもぶち切られても、死はない。 


汝の体は、本当に、空(くう)そのものだ。 

恐れる必要はない。


'死の神’もまた、汝の知性の発露だ。 

物質で構成されていない。 


空 は 空 を傷つけることはない。 

外面的に’平和の神’、’憤怒の神’、’血を飲んでいる神’

などなど汝を恐怖させる神の姿は、

汝自身の知性の放射された姿として存在している。” 

 

このように、考えれば、すべての恐れや怯えは 

自ら消滅する。 

そして、本性(空)と溶け込んで、

ブッダ・フッド(仏性合一)が得られるだろう。 


そして、そのように認識できれば、

”守護神に向かい、汝の信仰と愛で祈りを捧げよ。”

と 死者の書で呼びかける。


その祈りとは、彼らがバルド(死後の道)の

道中に 汝を迎えに来たとき、

’わたしが、彼らの光の中に帰命することが

できるように’と。”という祈りに ほかならない。

 

 

 

 

 

*1”チベット死者の書”  おおえまさのり訳 講談社 昭和56年5月 (第五刷)

 

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