無意識のコントロールドラマ・・・平成25年10月4にち
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心身ともにリラックスする場所。
家庭はそういう所だというイメージがある。
たぶん 多くの場合はそうであるだろうし
反対に、家庭の中で、ストレスを昂じている
人たちもいるかもしれない。
それは、傍からは 気が付かないし、見えない
”仮面劇”が繰り広げられているからだ。
そして、家庭仮面劇に幼いころから
巻き込まれて育ってきた子供たちは、
その影響を引きずることになる。
学校で、職場で、人間関係に ストレスを感じ、
登校拒否や心身症、社会に出てからは、
躁うつ病など、社会不適応障害が
見られることもある。
J.Redfield氏の研究によると、
人は、他者とのコミュニケーション時に
多かれ少なかれ、無意識に自己に以下のような役割
を振り当てて 対応しているという。
1) 征服者
2) 被征服者(時には犠牲者)
3) 傍観者
4) 尋問者
5) 脅迫者
氏は、家庭の内外含め こうした仮面をかぶり、ストレスを与える
人間劇を ”コントロールドラマ”と名付けている。
コントロールドラマの特徴は、その場のエネルギーの流れ”
を自分に引き寄せようとする働きかけがみられること。
なぜ、そうする必要があるかといえば、自分の十分でない
エネルギーの補欠が必要と感じるからだ。
相手のエネルギーをもらうことで、我々の持っている基本欲求、
”力と安全”、”自己価値” が 確保できて”満足”と’安心’
が得れるような気分になる。
今日は、こうした、ストレスを生み出す
コントロール劇に焦点を当ててみたい。
(1)征服者 と 被征服者の仮面
被征服者の仮面 をかぶった人は、会話の半ばから、
自信を失ったような感覚に陥いってくる。
征服者(会話の相手)の 受け身的立場をとり
会話が自分のことに及ぶと、罪悪感を感じとってしまう。
無意識に”スミマセン”を連発する。
そうした態度が、相手を優位な立場に押し上げ
自らのエネルギーを相手に 注ぎ続けてしまう。
たとえば、相手から
”昨日、電話をくれると思ったのに、くれなかったんですね”
と言われただけで、”だから、迷惑をかけられた”
と行間の意味をくみ取り、相手から責められている気分になる。
“あ。スミマセンでした” と つい、謝罪の言葉が出てしまう。
征服者はすでに、この時点で、”場のエネルギー”が自分に
流れ込んでいることを知っている。
征服者にとってみれば、相手(被征服者)の 自分への
気遣いや思いやり、申し訳なさ、同情などの感情こそが、
気(エネルギー)そのものだからだ。
2)犠牲者の仮面
ところが、被征服者の仮面をかぶっているうちに、
エネルギーの流れを逆転する人もいる。
その時にかぶる仮面が 犠牲者の仮面 だ。
それは、相手の同情 をひくことから始まる。
あるいは、相手に責任があることを感じさせようと
するかもしれない。
たとえば次のような会話が 犠牲者の仮面をかぶった
人の例だ。
征服者 ”昨日は きっと 君が電話かけてきてくれると
思っていた”
被征服者 ”あ、ごめんなさい。 つい、忙しくて・・・”
征服者 ”わかっているんだ。 どうせ、キミは僕を理解
しようとしていないんだ・・”
ここで、被征服者は、申し訳なさそうにうなだれていたが、
エネルギーが失われるのを防ごうとして、犠牲者の役回り
に転じる:
犠牲者 ” あなたって、いつもそういうのよね。
何か私に期待して、それが満たされないと、怒るんだから。
私のだめなところを責めてばかり・・
私に愛想を尽かし始めてるんでしょ?
もう、別れたほうが いいのかもね。”
すると、征服者は、相手から 思いがけない”別れの話”
を持ち出され、予想外の展開にとまどう。
その瞬間から、今までのエネルギーの流れが
逆転するのだ。
彼が彼女の目線で、考え始めたとき、犠牲者の仮面を
かぶった人は、場のエネルギーの流れ が自分のほうに
流れてきたことを感じるだろう。
それはつまり、会話が自分のペースにのってきたこと
でもあり、”征服者(この場合、犠牲者)の世界観を共有させ、
相手に 自分の目線から、状況対応させる“ ことで、
エネルギーの主導権をとったということでもある。
どのような仮面をつけるとしても、コントロール劇を
演じる人たちは、人間関係に ストレスを感じるだろう。
両者の無意識の意識空間に、”エネルギーの攻防戦”が
繰り広げられるのだから。
(3)傍観者 の 仮面
傍観者は、外見的に、受け身的だ。
傍観者の仮面をかぶる人の、戦術は、こうだ。
まともな会話の返答を避けて、本心をいわない、
曖昧な態度、あるいは、無関心な様子を見せることで、
相手に 関心を抱かせる。
そして、相手から 関心を持ってもらい、意識的に
“気を使わせる”ことで 傍観者は 相手からの
エネルギーを受け取るしくみである。
たとえば、
”どのようなお仕事されているのですか?”
と Aに 聞かれた傍観者B は
”ええ、よく、旅行に行くので・・”
と曖昧性を持たせて返答する。
すると、Aは 旅行という言葉にひっかかり、
”どちらに、よく旅行されるのですか?”
などと質問するかもしれない。
このあたりから、すでに、会話の流れ、エネルギーの
場は、傍観者Bを中心に廻っている。
傍観者Bは Aの質問にさらに、答える。
”まあ、いろいろな場所です。”
と グレーな返答しか与えず、ますます、
相手を煙に包み込んでいく。
Aは、傍観者の仮面をつけているBの眼を通して
その人のペースで 思考を組み立て、彼の人となりを
理解しよう、と 懸命だ。
結局は傍観者Bは、望み通りのエネルギーを
こうしたAの態度から、与えられることになる。
傍観者の人はだから、大概、本音をいわず、
廻りの動きを観察しながら、 自分の存在の周りに
神秘とか、理解しにくいという 見えない壁を構築する。
続きは・・・・(次回に)
参考
ジェームズ・レッドフィールド ”聖なる予言” 角川文庫ソフィア、
1996
”第十の予言” 角川文庫ソフィア、1997
”聖なる予言 実践ガイド” 角川書店、 1995