師について一考:なぜ、梵語とサンスクリット語
平成25年10月20日
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日本語に入ってきているサンスクリット語
(梵語)は 仏教用語の中に見られる。
たとえば、阿闍梨 あじゃり 意味は、
密教において、
法の義を教える資格のある教師をさす。
もともとは サンスクリット語の acharya
(アチャリヤ)だ。
仏教国タイに入ってアーチャンに変化して、
タイ語として、
今でも”先生”という意味で 日常に、
使われている。
日本語で”奈落の底”に堕ちるというコトバがある。
奈落 とは、地獄 をさして、サンスクリット語
ではナロック という。
以前にもご紹介したが、世話 という言葉も
もともとは、
サンスクリット語の セヴァ からきている
らしい。
セヴァとは、奉仕するという意味でも使われて、
もともとは、
心を尽くしてお仕えするという意味であったの
だろう。
さて、阿闍梨 という言葉をもう少しみてみると、
“大日経” に阿闍梨の資格について述べられて
いる箇所がある。
阿闍梨 になるべく条件として、13の徳性が
掲げられて、弟子たちは阿闍梨から 法を
実践するための器として適当かどうか、
その徳性に順じて判断される。
弟子の境地に応じて 伝法灌頂(かんじょう)
や許可(こか)を授けられる。
こうして 師資相承の血脈が絶えないよう、
法の義のもとに師から弟子へと、脈々と教えが
受け継がれていく。
その要(かなめ)に 阿闍梨の役目があると
いわれる。
弘法大師は、そういう、師と弟子との間の
関係を“弘仁の御遺誠”に以下のように、
記している。
“師資の道は父子よりも相近し。
父子には骨肉相親しといえども、
ただこれ一生の愛にして、
生死の縛なり。
師資の愛は 法の義をもって、相親しみ、
世間 出世間に苦を抜き 楽を与う。
何ぞよく比況せん“
その意味は、”師と弟子の関係は、家族父と子
の間より近いという。
血のつながりの縁は 父にあっても、一代の
間の愛情関係であるし、生死によって、
束縛されている。
その反面、師と弟子の間には、法(真理)の義
でつながれ、世間的な生活の中の 苦を除いて、
心の安堵が与えられる。
この二つの関係をよく、比較してみなさい。”
ということになる。
ここでは 法 という真理の深遠な智慧を
授ける師と受法する弟子(資)の関係と、
その取得により得られる、
法 の楽(安寧)を 弘法大師が示している。
師に対する、そうした観方は、仏教を生み出
したインドに今も残る、グルシシャ(師と弟子)
制度の根幹にもつながる。
師 は 必要ないという人がいる。自分の心の中の、
本質(アートマ)が師であるのだから・・ という。
それも一理あると思う。
しかし、”実践と体験” を 通して、人は、悟りに
近づく。
その道を先んじて進んでいる 先達(せんだち)に、
跡に続く者が、迷わないよう転ばないよう注意して
もらうことも 時には必要だろう。
その先達が、教師であり、 師の弟子に対する
お役目だとインドでは考えられている。
真理は書物から学べても、それに到達する 秘伝
は どこにも書かれていない。
師 の 背中を見て、あるいは、直接 口伝
されるかして弟子はそれを学び取る。
だから、師 は 道を学ぶ者には、必要だと、
賢人は説く。
さて、阿闍梨の話から少し脱線するが、日本の法事で、
数珠を左手にかけるものと教わったので、
インドの寺院でそうしていたところ、右にかける
べきものだと 師から、指摘された。
それは、右手は浄、左手は不浄だからという
のが理由だった。
そこで、日本に帰って、右と左の意味合いを
再確認してみた。
密教、真言宗などで、 経典によれば、左右の意味は
次のようになる。
右 ~ 慧・観・智・金剛界・仏界・日
左 ~ 定・止・理・胎蔵界・衆生界・月
仏像を見ると、その手の平は 印 を組んでいる。
印 の中で、、法界定印 と呼ばれる結び方がある。
左手と右手を重ね合わせる印で、瞑想時に
精神統一する効果があるとされる。
この印の組み方が、日本で、禅宗と密教では
異なる。
どちらの 掌(たなごころ)を上に乗せるか
の違いである。
ヒンズー教や、密教では、右手を左手の内側
に置くが、禅宗は 左手を右手の上に重ねる。
再び、サンスクリット語の話に戻ると、
ブッダの言葉を書き留めた御経は梵語
(古代サンスクリット)語で書かれて
いるが、そもそも、何故、サンスクリット語
を梵語というのだろうか?
梵天 という神がいる。
梵天はブラフマ神のことだ。
宇宙の創造神であり、言葉はこの神様
が造られたとヒンズー教ではいわれる。
その言葉により、世界は成立し、その言葉
の波動によって、命をもった。
だから、言葉(インド古代)を梵語(梵天のことば)
という。
それは、旧約聖書の言葉、”言葉は神とともにありき。”
”コトバは神であった”~に匹敵するところかも
しれない。
その梵天の発する波動、マントラは、真言、
真理をさす。
そのマントラを使用するにあたり、黒ではなく、
白として使うこと、つまり、”小我を捨て、大自我に
いたる手段”として、活用するように、言われる
所以なのだろう。
弘法大師は マントラ(真言)について、
”声字実相義”に 以下のように、記している:
”五大に皆、響きあり、十界に言語を具す、六塵、
ことごとく、文字なり、法身は、是れ 実相なり”
すべての生き物、物質には、声や字を持って
響きを発している。
それらは 即.実相を顕わし、我々の法(真理)
の身こそ、実相にほかならないと言っておられる。
さらに、”般若心経秘鍵” には、”真言は不思議なり、
観照すれば、無明 を除く、一字に千理を含み、
即身に法如を顕す”と書かれている。
つまり、"般若心経の言霊は 不思議である。
なぜなら、これを良く観じ、理解すれば無明
がとれて、一文字一文字には深い千の理
(ことわり)が含まれて、すぐ、生きている
身(唱えることによって)真理の醍醐味
が現れる。"
という意味になるだろう。
このようにして、古代インドのサンスクリット語が
日本に仏教とともに入り、般若心経など,古くから
日本人に親しまれる御経とともに、私たちの
日常生活に 自然と入り込んでいるのは、
興味深いところだ。
参考:
密教瞑想法~弘法大師降誕1201年~ 山崎泰廣 著
永田文昌堂 S.49