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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

4月18日

2014年04月18日 | 学年だよりなど

 学年だより「全国レベル(2)」

 ~ それ(受験)は「遠い」ものへの意識を経験するということです。全国模擬試験や偏差値を通じて、クラスの級友(のライバル)を越えた関係を意識することになります。「遠い」もの、見えないものを制御する意識を受験勉強で初めて経験し、それを乗り越えていくわけです。 ~


 人は、自分の周囲何メートルだけの世界や、自分のことを知ってくれている人で構成される空間だけで生きていくことはできない。
 この先大学に進み、就職して家族を持って、という人生を想定するとき、見知らぬ世界との接触を避けるわけにはいかないし、そういう経験こそが自分の糧となっていく。


 ~ 子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、体面人間関係(いわゆる〈親密圏〉)を越えるときです。「体面人間関係を越えるとき」というのは、昔なら、トイレに行くのが怖い=家の闇と光、トトロ的な森の神秘=村の境界などが当たったのかもしれませんが、いまでは、高偏差値の学生たちなら、全国区の受験勉強でそれを体験します。
 喧嘩が一番強くても、クラスで一番を取っても、担任の先生に褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな対面評価ではあてにならないということを実感的に体験するのが全国区受験体験なわけです。
  … 大概(残念なことですが)、学歴差がそのまま仕事能力と相関している。〝単純な″仕事でも学歴が高い方がまともにこなす。この相関は、給料ももちろんだし、三年以内離職率も中卒では七割を超える。単なる「国語・算数・理科・社会」のジェネラルエデュケーション(あるいはリベラルアーツ)の有無や格差がどう実務能力の格差と相関しているのか、いつも疑問に思っていましたが、たぶんそれは青年期の成長の最終段階で、対面関係を越えることが、現代では受験競争(および体育系クラブ活動における身体的な競争)くらいしかないからです。 (芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン) ~


 共同体や社会では、そこで大人(一人前)として認められるためにクリアしなければならない課題が、一定の年齢になった者に課される儀式がある。
 ある日を境に大人の格好をさせられたり、力試しや度胸試しを課されたり、一定の困難を与えられてクリアさせるという形式をとることが多い。最も有名なのがバンジージャンプだ。
 現代の日本では、受験勉強がそのようなイニシエーション(通過儀礼)の一つとして機能していると言えるだろう。もちろん、「受験競争」や「体育系クラブ活動」を経験してなくても、なんらかの形で「対面関係を越える」経験をすることはできる。たとえば、学歴はなくても、若くして起業しその会社を大きくしたという人もいれば、地域共同体の中心になっている人もいる。そういう人は、どこかの段階で、「体面関係を越える」経験をくぐりぬけ、成長してきたのだろう。
 繰り返しになるが、受験や部活は、そういう経験をする貴重な場だ。
 そのためにも、いい加減にではなく、きちっと辛い思いをしないといけないのだ。

 

 


 

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