水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

田舎

2013年04月20日 | 日々のあれこれ

「わざわざ東京行かなくてもネット使えば欲しい物は買えるし、もう田舎も東京も変わらない気がするけど。むしろ自然とか海とかおいしい食べ物とか都会にないものいっぱいあるし」
「今日なまってないね」
「あ、そうだね。最近、浜へ出てないから戻っちゃったかも」
「そっちの方がいいよ。アキちゃんがなまってるなんてウソだし不自然だし…なんかバカにされているような気がする」
「そ、そんなつもりじゃ…」
「ごめん、怒った?今のは言い過ぎ…だけど半分は本心。ネット使えば欲しい物買えるとか田舎も東京も変わんないとか私は言えない。そんなの田舎者の負け惜しみだもん。自然がいいとか海がキレイとか東京から来た人が言うのは分かる。でも私は言えない。だったら私は都会が好き! 私はビルが好き、地下鉄が好き、ネットカフェが好き。アハハハ言った事無いけど(笑)だから行きたい。この目で見たい。地方出身者でも同じ同い年の子とか年下の子とか全然頑張ってるし、チャンスがあれば明日にでも出て行きたい。」


 そうなんだよ。
 やっぱり自然がいいねとか、しれっと言ってんじゃねえぞ。
 いっかい住んでみろ。冬はほとんど毎日空暗いんだぞ。電車は一両で、一時間に二本だから。
 川越線はいくら田舎の電車といっても、一時間に三本来るし、10両もつながってる。
 そういえば、高校のとき、降りる駅でねすごしかけて、「あっ、降りる!」って車掌さんに叫んだら、電車をバックしてくれたんだけど、その話をこっちでしても信じてもらないんだぞ。
 民放のテレビは二局しか映らないから、「金八先生」も見られなかったんだぞ。
 そういうところに住んだことがあるのか。
 
 週末の「あまちゃん」の一節は、脚本もいいけど、役者さんが実に言葉に血や肉をあたえていて、そうだ、こういうお芝居を立体感があるというのではないだろうか。
 あと、能年玲奈ちゃんはなまりすぎだろって思ってみてた。東京で生まれ育った子が二週間やそこらでネイティブな土地の言葉をみにつけてしまうのはおかしいと。また、それ以上に橋本愛ちゃんが、ジモッティのネイティブなのになまりがなさすぎると感じていたのだが、その土地に対する二人の気持ちを、なまりぐあいで象徴してるんだなとよくわかった。
 
 それにしても、浜からあがって歩いてくるあまさん達。
 宮本信子、渡辺えりこ、木野花、美保純、片桐はいり。よくもまあ、こんなに存在感をだせるものだ。
 この五人が歩いてくると、スイングレンジャーよりも、いやオーシャンズ11よりも押し出しが強い。
 来週も楽しみ。

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4月18日

2013年04月18日 | 学年だよりなど

 古文演習2こ、漢文2こ、会議1こやって、いよいよ一年生の楽器決め。
 なんとか第一希望、第二希望の範囲にほぼ入ってもらえた。
 何があってるのかは実は誰にもわからない。先輩たちのなかには第3希望でもなかった楽器になり、気付いたらマイ楽器をもち、大学に入っても続けることになった人もいる。
 すべては自分次第。大人も同じ。就活で「やりたい仕事」を探しているような人は、意外にパフォーマンス低いものだから。

 

 学年だより「五つの約束2」

2 ボタンをしめる
 学生服は正しく着よう。学生服をちゃんと着るのがいやな人は、もうしわけないけど、よその学校に行ってください。窮屈さは勉強への集中を妨げるという理由を述べる人もいるかもしれない。それを窮屈と意識しないで勉強できるようになる練習をしているのだ。

3 ゴミはそのつど捨てる
 教室は公の場であり、みんなの私的スペースではない。視界に入るゴミは人の集中を妨げる。
 個人のちょっとした面倒くささで、他人の勉強を邪魔してはいけない。

4 勉強道具を床におかない 床におくとバチが当たります。

5 騒がない
 例えば電車で本を読んでて、途中から乗ってきた若者軍団の騒がしさに辟易することがある。
 大声で騒ぐ彼ら彼女らが不快なのはなぜか。
 それは、その場にいるこの私が無視されているからだ。これを傍若無人という。
 わが身をふりかえってみて、そんなことをしてしまった経
験はないだろうか。
 教室で、友達の頭ごしに、遠くの席の同じ部活の人と話してしまったことはないか。
 頭越しされた人はその存在が無視されているのと同じだ。
 わりと静かな教室内で、みんなに聞こえるような声で、個人的なことを話してた経験はないか。
 「やべぇよ、昨日ぜんぜん寝てねぇよ」とか大声でしゃべってたことはないか。
 どう見てもかしこくは見えないふるまいだ。
 休み時間は、ちょっと勉強したい子もいれば、貴重な睡眠時間にしたい子もいる。
 元気に過ごしてはいけないというのでは全くない。誰かと会話するときは、その人に聞こえる音量で話せばいいというだけの話だ。
 その二人で通じ合えばいい内容を、周りのみんなに聞かせる必要は全くないのである。
 まして教室の一角で数人が悪ふざけ的な盛り上がりを見せていたら、他の人はどうだろう。時には「おれのことが笑われてたらどうしよう」と不安に思う人もいるはずだ。
 そんな不安を過去一度も抱いたことのない人は、よほど幸せな人生を送ってきたか、無神経かどちらかである。
 あわせなければ空気読めないと思われないだろうかとか、友達扱いされないだろうかなどと気をつかって、馬鹿騒ぎにつきあう必要はまったくない。
 そんな感覚で仲良くなった人は、友達とはよべない。そういう「友達」はむしろ不要だ。
 喧噪から知的な空間は生まれない。しっとり落ち着いた教室で勉強しようではないか。

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「手の変幻」から学ぶ

2013年04月18日 | 日々のあれこれ

 ミロのビーナスは両腕がないからこそ魅力的だと清岡卓行は言う。
 この言葉自体は、べつに清岡氏じゃなくても言えそうな言葉だろう。
 山田うどんはこしのなさが魅力なのだとか、マクドのコーヒーには色しかないから安心するとか。

 ~ 僕はここで、逆説を弄しようとしているのではない。 … ふと気づくならば、失われた両腕は、あるとらえがたい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を、深々とたたえているのである。つまり、そこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。それは、たしかに、半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。(清岡卓行「手の変幻」第一学習社) ~

 みんな、ここから何が読み取れる? 
 将来合コンとか出る日が来るよね、そんなとき自分情報をすべて一気にさらけだしちゃだめだよ。部分的に開示しておいて、ミステリアスなところも少し残しておこう。全部をさらけだされないからこそ、そこに想像力が働き魅力を生むもとになるんだからね … 、と言う話をした。本文の冒涜にはあたらないと思うのだが。
 アイドルに恋愛は許されるか否かということが一時問題になっていた。
 答えはあきらかだ。不可に決まっている。そのこと自体がアイドル、つまり神秘性をおびた偶像の定義だから。
 「アイドルだって年頃の女の子なのだから恋愛してもしょうがない」という意見があったが、議論の次元を間違えた空虚な言葉だ。
 彼氏いてもいいけど、それが表に出た瞬間に、生命の多様な可能性の夢が絶たれる。
 夢を見させる存在が、ファンの夢をうばっていいはずがない。
 能年玲奈ちゃんには、このまますくすくとぼくらの夢を育て続けてほしい。

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

2013年04月17日 | おすすめの本・CD

  すでにネット上でたくさんの感想が語られているし、ハルキストとよばれるほどの読者ではないので、多くを語るつもりはない。ただ一つ言えるのは、この作品の本当の価値が理解できるのは、そして作者のメッセージを受け止められるのは、たぶん俺だけだ。他の人は表面的にしか読めてない。何のメタファーなのかも、作品全体の寓話性もわかっていない。そして主人公の孤独感は、この私にだけは本当に感じることができる … なんてね。
 そんな思いを抱いた人が日本に何十万人かいて、この先おそらく全世界に広がっていく。
 たとえば福井県の田んぼに囲まれた家に住む人も、モンゴルの山奥に住む人も、ニューヨークのなんとか街に住む人も、名古屋の裕福な家庭に生まれ育った主人公の閉塞感を感じ、東京での喪失感をわがことのように意識する。


 ~ 作品自体は肩慣らし投球を思わせる「小品」。 … 自分のことを「色彩のない」人間だと思っているのは、それこそ村上春樹の小説の主人公にストレートに自己同一化できる男性のナルシストくらいだろう。今更、この分量で描かなければいけない題材ではない。(by批評家・宇野常寛) ~


 なんて評も目にした。まあ、宇野くんのようなヤングには、熟成された味わいに気づけないかもしれないね。
 「題材」とか「内容」とかの問題じゃないんだよね。時間のあるときに論じ直してもいいけど。
 最後らへんまで来てふと、庄司薫の小説を思い出した。
 気鋭の批評家、宇野常寛氏の生まれる前に出版され、高校時代に夜を徹して読んだ「赤頭巾ちゃんシリーズ」。
 主人公多崎つくるくんは36歳の設定だ。青春時代の喪失感を乗り越えて一歩踏み出そうとするのに、日本人は二十歳そこそこではなく、三十数年かかるようになったのかと感慨深かった。
 このまま訳されて世界中で読まれるのに何の不都合もない文章だと思えるのに、日本語としての完成度も比類ないものと感じるのはなぜだろう。そんなことも思う。ああ。自分の日本語遣いの不自由さに愕然としてきた。

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楽器体験

2013年04月16日 | 日々のあれこれ

 昨日から新入部員の楽器体験デーになっている。29名が今日もみんな来てくれてよかった。
 ちなみに新入部員の出身部活(元何部だったか)はというと、ソフトテニス・卓球が各6名、野球・陸上が各3名、剣道・サッカー・バスケット・吹奏楽が各2名、囲碁将棋・水泳が1人ずつといった内訳。
 あさってまでかけて、どんな楽器があるかを知ってもらった上で楽器決めをする。
 入学者数から考えて、もう少し来るといいなあと思ってたのも正直なところだが、全体をみわたすと今年は多くの部活動にけっこうまんべんなく分布した学年のようだ。
 文化部では例年わが部とマンドリンさんが多くて他は厳しいといった年も多かったが、今年は他のいくつかの文化部も充実している。
 浦和高校さんをあと1ポイントで撃破するまで力をつけたクイズ研究部や、全国大会の常連となった新聞文芸部さんに入部者が増えるのはある意味当然で、物理部、情報処理部のようにマニアックな部活も必ずニーズがある。 勉強も部活も両方がんばろうと言っている学校としてはけっこういい感じのはずだ。
 最近は、県立さんの方が進学実績に重きをおこうとしすぎているように見えるときがある。
 公立学校が、放課後に補習・講習を行い、それがなかば強制になっているというような事実があるなら、それは逆に学習指導要領に反すると思えるのだが、ちがうのかな。
 勉強の時間は勉強、それ以外の時間はそれ以外のことができるよう保障すべきではないのか。
 保護者や生徒自身のニーズがあるからと言われる方もあるかもしれないが、それは公教育のあり方としては方向性が逆だ。
 それに、生徒数が減って統合する学校がある一方で、進学校、伝統校と言われる学校の定員は、年によって増やしたりするにのはどういう力学からなのか。
 日本郵政のクロネコヤマトいじめといっしょなんじゃね? 
 なんてね。ごまめの歯ぎしりだけど。

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あいさつ

2013年04月15日 | 学年だよりなど

 読売新聞で、山崎正和先生の教育についての提言を読んだ。
 低学力、学力格差といった問題を生んだ大元として、戦後教育のあり方からふりかえる。
 戦後教育の特徴の一つに「つめこみ教育」批判があり、生徒の自主性、創造性を奨励したが、この考えが間違った方向にすすんだのではないかと。
 自主性、主体性を第一とする前に、必要な基礎知識をつめこむことが大事だと述べられる。
 ここまでの議論は、同じ趣旨の意見をいくつか見た事がある。
 「そして、つめこみが何より有効なのが、実は道徳分野なのである。」
 という一文には、深く納得した。
 愛国心とか親孝行とか「考え」を教えることではなく、挨拶、そうじといった具体的行為を習慣として身につけさせた先委、自然と他人を思う気持ちや、倫理観は養われるという。
 やるべきことと思っていること、やろうとしていることは間違ってないなと思う。


 学年だより「五つの約束」

 今年を実り多き一年にするために、昨年に引き続いて、次の五項目については学年の目標として徹底していこう。

 ~ 1 あいさつをする  2 ボタンをしめる  3 ゴミはそのつど捨てる  4 勉強道具を床におかない  5 騒がない  ~

1 あいさつをする
 人としてふるまうための最も基本の行いがあいさつである。
 大げさな言い方に聞こえると思うが、われわれ人間は、一人では生きていけないし、社会的存在たり得ない。
 人は複数で生活してはじめて、生物ではなく人間になれるし、文化的な生を送ることができる。
 自分と他人とが共存するとは、それぞれが相手の存在を認めることである。
 その人の存在を意図的に認めない行為が、「いじめ」として非難されるべき行いであることも、みんなは知っているはずだ。
 相手の存在を認めるための一番基本的な行為が「あいさつ」である。
 そんな理屈を言わなくてもわかってますよ、と思う人が多いかもしれない。
 昨年から見ていて、みんなよくあいさつしてくれるから。
 ぜひ今年度も続けてほしい。昨年以上にあいさつできるようになってほしい。
 「こんにちは」と教室に入っていく私達をシカトしないでほしい。
 あいさつにはもうひとつの働きがある。
 それは、自分の気持ちを盛り上げることだ。
 どんな時間帯でも「おはようございます」と元気よく現場に入っていくことが芸能人の掟であることはよく知られているが、それは現場のテンションを下げないためであり、その仕事に入っていく自分のテンションを気分をあげるためのものである。
 運動部の人は、練習中に声を出してテンションをあげていると思う。
 授業も同じだ。まずは「おねがいしますっ!」と声を出すことで、「よし、やるぞ!」という気持ちになれる。
 われわれ教員も気持ちよく授業に入れるから、お互い様だ。
 粉飾決算の罪で服役して先日仮釈放された堀江貴行氏が、メルマガの中でこう述べていた。
 読者の質問に答えるコーナーがあるのだが、ある読者が質問する。
 「会ってみたら『意外といい人だった』という有名人は誰ですか?」

 ~ A 大概よい人たちですよ。悪人はなかなか有名人にはなれません。 ~

 あいさつ一つできない人が、自分の夢に近づけるはずがないのは言うまでもない。

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舟を編む

2013年04月14日 | 演奏会・映画など

 本校OBの石井裕也監督の新作は、本屋大賞にも選ばれた三浦しをん『舟を編む』を原作にした作品。
 原作は読んでなかった。辞書づくりを題材にした小説だから、国語の先生として読まなきゃなと思ってたが、どう考えても地味そうで、そのままになってしまってた。
 映画も「地味」だった。
 殺人マシーンも出てこないし、むやみに大雨降らせるシーンの羅列もない、二重人格者も幽霊も出ない。
 こんなに地味なのに退屈しないのはなぜだろう。役者さんの演技? それも大きい。
 辞書づくりという地道な仕事に没頭する青年の役を、松田龍平が好演する。宮崎あおいちゃんは、すでに「ちゃんづけ」が畏れ多い女優さんで、あらためて上手だなんていう必要もないくらいだ。むしろどんな作品でもいい仕事をしすぎかも。だめな作品の時はだめに見える女優さんの方がひょっとしたら器が大きいかもと思ってしまう。
 あおいちゃんも、オダギリジョーでさえも地味だ。
 なのに、気が付くと泣けてくるのはなんでだろ。
 われわれの人生って、地味っちゃあ地味な毎日だ。
 この二人を見てると、その地味さがドラマチックだ。
 だから、われわれが一日生きることも、それだけでドラマチックなのかもしれない。
 石井監督はそれがわかっていて、なんのけれんもしかけずに、たんたんと映像化した。
 もしかしたら不器用ではないかと思うほどまっすぐに。
 だからこそ、役者さんの力はそのまま現れるし、原作者の描きたかったものも自然に立ち現れる(たぶん)。
 監督さん自身の「おれがおれが」という気持ちがみじんも感じられない。
 これを作品に対する「誠実」と言わずしてなんと言おう。
 石井くんのことは、「川の底からこんにちは」の監督ってずっと言われてるけど、この作品で呼び方変わると思う。
 そして、あたりまえだけど、監督さんはじめスタッフの方々みんなが地味に地道に積み重ねた仕事の結晶がこれだったのだろう、自分も自分の持ち場でこんな仕事がしたいと思った。

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トリガー

2013年04月12日 | 日々のあれこれ

 今日は、現代文と古文で今年度初めての授業があり、さすがに最初の時間はみんなシンとして、こいつはどんな風に教えるつもりなのだろうと見つめているので(なかには見とれている子もいたろうか)、つい調子にのって語りに入ってしまう。
 文章はなぜ書かれるのか、現代文とは何か、評論とは何か、評論はそういうものだとしたら自然読み方も決まってくるよね、じゃこういう言葉にチェックして読んでごらん、するとあらあら不思議、大事なところがはっきりしてくるね、こういう読み方を練習してくんだよ … 。
 合理主義やら個人主義という単語が出ると、みんな自分の人生は自分で決められるって思っているよね、でもそんなのはここ数十年の話なんだよ、もっと言えばこのあいだの戦争の後からかもしれない。この間の戦争ってわかるか、太平洋戦争のことだよ、みんなのお父さんお母さんが生まれるちょっと前まで、日本は戦争してたんだからね、だいたい太平洋戦争とは … 。
 完全にオヤジの説教になる、すんでのところでくいとめて授業にもどっていくが、そんなお説教の最中に、何かを思って一言メモしてる子を見つけたりすると、うん、この生徒さんは伸びそうだと思う。
 われわれが黒板に書いたことをきちっとノートにまとめる生徒さんは、その通りにかちっと成績をキープする。 それプラス、そのときに自分が思いついたことを書き留めたり、うまく図に書き直したりする作業をしはじめる子は、あるとき一気につかむことがある。
 オヤジくさい説教やいつものハイブロウなギャグが、むしろそういうきっかけになることもあるはずだ。
 内田樹先生は「トリガー」と言っていた。

 ~ 教師の仕事はどうやって学びを機動させる「トリガー」を見つけるかだけなんです。トリガーはひとりひとり全部違う。ある子どもはこう言ったら、いきなり勉強しはじめた。じゃあというのでおなじ言葉を別の子どもに言っても上の空だった、なんてことは当たり前なんです。(内田樹・岡田斗司夫『評価と贈与の経済学』) ~

 なにがトリガーになるかは、教える側も教わる側もわからない。
 だから、学校にはいろんな先生がいるべきだと、内田先生は言われる。
 高い見識と教育力をもつからいいというものではないとも言われるので、もう予習もほどほどでやめて、『多崎つくる』を買いにいこう。

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ボナリー

2013年04月11日 | 日々のあれこれ

 「有吉・マツコの怒り新党」の「三大○○」というコーナーは、もう少し短い尺でいいかなと思うこともあるが、昨夜のはよかった。
 スルヤ・ボナリーという、女子フィギュアスケート選手のお話。
 フランス国籍の黒人選手で、抜群の身体能力をもち、両親を知らずに育った幼い頃から体操競技に親しみ、フィギュアスケートを始めるや、めきめきと頭角を現す。
 はじめて四回転ジャンプを成功したのも彼女だったが、そのときは回転不足とのジャッジで四回転は認められなかった。20年ぐらい前の話だから、いかに突出した技術をもっていたかがわかる。
 ただし、つねに芸術点が伸びなかった。
 いつ変わったか覚えてないけど、昔のジャッジはわかりやすかった。技術点、芸術点のそれぞれを、審査員が6点満点でつけていく。
 「5.4、5.6 … (ファイフォー、ファイブシックス … )」って読み上げるのを一度はまねしたよね。
 たとえばソ連と西ドイツの選手が争っていると、ソ連と西ドイツの審判は、それぞれ相手国の点数を低くして、自分の国の選手を高くする。
 今思うと、なんと人間的な審査方法だったのだろう。
 ただし、近代スポーツの採点としては問題が多いとみんな思ったからこそ、今の方式になったのだ。
 この問題は、早稲田にスポーツ科学部の小論文の練習になるはずだ。
 そんな時代だから、やたら技術の高い黒人選手に、芸術点がつかなかったのは当然だともいえる。
 日本人でさえ、西洋発祥のいろんな競技において、さまざまな不遇な目にあってきたのだから。
 「スルヤ・ボナリー、異端の女子スケート選手の三大なんとか」だった。
 つねに金メダル候補と言われながら、大会ではとくに芸術点が伸び悩む。
 あまりに低い審査点に抗議して銀メダルをはずしてしまったこともあった。
 そして、現役最後の試合、長野オリンピックでは、フリーにのぞむときすでにメダル圏外だった。
 彼女が最後に見せたのは、危険度が高く禁止されているバク転。度肝をぬかれた観客はやんやの喝采をおくるものの、審査員は4.9とかつける。
 わずか数分間で知ったボナリーさんの選手生活だが、泣けた。最後に自分を貫いて意地を見せたところはとくに。
 それでVTRがおわってスタジオになったら、マツコさんと夏目ちゃんが泣いてる。
 マツコさんも、夏目ちゃんも「異端」の彼女の気持ちがいたいほどわかる人生送ってるんだよなと思ったら、また泣けた。
 こういうのを道徳の教材にしないといけないなあ。

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4月11日

2013年04月10日 | 学年だよりなど

 学年だより「夢のあきらめ方2」

 「 a最初から夢を追わない、bちょっとやってみてから諦める、c期限を決めてやってみる
   dとにかくやるだけやってみる e何があっても諦めずに追い求め続ける 」
の5パターンを前号で書いてみたが、これを大きく二つに分類してみよう。
 すぐに気付くと思うけど「a」と「b・c・d・e」だ。 
 なんらかの夢を描いたとき、やりたいことを思いついたときに、それを実際に「やる」のか「やらない」のか。
 映画の原作である『芸人交換日記』には、こんな言葉があった。


 ~ やろうと思っていることと、実際にやることの間には、大きな川が流れている。(鈴木おさむ『芸人交換日記』太田出版) ~


 「人には無限の可能性がある」という言葉がある(特に学校の先生が言いがちだ)。
 その言葉は、極めて限定された局面において一定の真実を見いだすこともできるが、一般的には「ウソ」である(わかってるよね)。
 そんな、めったやたらに可能性があるわけがない。
 仮にものすごい努力をしたからといって、誰もが香川真司選手になれるわけはないし、100mを9秒台で走れるようにはならない。
 ただし、何事もやってみなければわからないというのも本当だ。
 高校でたまたま先輩に連れていかれてやり始めた競技で、後にプロプレーヤーになる人もいる。
 好きで始めたことでも、まったく自分にあってないことに気付く場合もある。
 人は可能性を信じてチャレンジできる生き物だが、特定の一つか、せいぜい二つ以外のことは、夢を諦めなければならない。
 自分は何でもやれそうだと思っている人がいたなら、おそらくその人はこれまで何もやってこなかった人だろう。
 諦めることは決して後ろ向きの行為ではなく、自分にあった別種の人生を見つけるために一歩前進する作業だ。
 だとしたら、どんな風に自分の夢と向き合い、どんな風に夢を諦めるかが問題になってくる。
 「夢を諦めること」は、人の成長の一つの形なのだ。


 ~ この本の中で、「夢を諦めるのも才能だ」という言葉に出会った時、僕はそのことに気付きました。若い頃は、夢を諦めることイコール敗退だと思っていました。でも、「諦めよう」と思うところまで突き詰められるのは、敗退ではなく、前進だと信じたいのです。「自分はこの世界でやっていくような人間じゃない」と気付くまでやり切った人なら、次の場所でも必ず、夢を追えるはずですし、辞めていった仲間は実際にそうです。 (若林正恭「『芸人交換日記』解説」より) ~

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