ホール練習。ほんとうはもう少し曲ができてからホール連に行くにこしたことはないが、なかなか日程がとれないし、できてなくても、やっぱり行かないと。
普段の練習場所には恵まれている本校の場合、あえてホールに行くなら、本番と同じ会場でないと意味がない。
ということで、午前の三時間だけだが、さいたま市文化センターにでかけてきた。
セッティングを決め、ポイントポイントのバランスを調整し、最後にわたなべ先生にふってもらい、審査員席で通しをきく。
審査員の先生なら、こんなコメントを書き、こんな点数をつけるだろうという課題がみえてきた。
ここからが勝負なんだよな。
急いで片付けをし、外に出ると、案の定着いたときにくらべて気温ががっつりあがっている。猛暑。
学校にもどって練習。応援のだんどりを少し。
例えば10年前、20年前ならもっと、自分の高校生ぐらいまでさかのぼるなら間違いなく、7月はここまでは暑くなかった。
野球のシーズンも、見直すべきなんじゃないのかな。見直さないだろうなあ。
高校生がばたばた倒れて社会問題にでもなれば、重い腰もあがるかもしれないけど。
高校生もそうだし、(吹奏楽)顧問の先生方、じゅうぶんお気をつけて。
危険な交差点なんかもそうだけど、誰もがあぶないと思ってても、ほんとうに事故がおこって、それも複数回あってはじめて具体策が講じられる。それが世の常とはいいながらも、あまりの無力さに呆然とするしかない。
練習後、職員室にもどるとamazonの箱が届いている。何、頼んだっけ?
そうだ、課題曲に関連して聴いたら参考になると言われた曲のCDをいくつか買ったのだった。
そういうときはYouTubeでさくっと調べるようにしようと思ってスマホに換えたのに、使い方がわからないので、結局amazon頼みになっている。これも聴かねば。やればやるほどやるべきことは増える。たぶんそれは正しいのだが。やらなければ、そのレベルのままで終わり、そのレベルのままであることにも無自覚でいられるから、かえってその方が幸せなのかもしれないけど。
週刊文春のクドカンの連載に、「嵐のワクワク学校2013」に行ったという話が書いてあった。
「あまちゃん」を書き上げた後体調を崩し、仕事を忘れて家族サービスしてきなさいと奥さんに言われ、娘さんとでかけてきたという。
嵐のコンサートではない。メンバー5人が先生になって、ファンに講義を行うイベントだ。
クドカンさんも書いてるが、そういうイベントを、東京ドームに五万人集めて出来てしまうとこが嵐のすごさだろう。チケットもライブと同じくらい手に入りにくかったんじゃないかな。
松潤さんが、二十歳のとき10年後の自分にあてて書いた手紙に心打たれたという。
「まだ芸能界にいますか?」
という一文があったんだって。
「いる」なんてもんではない。占拠してるといっていいぐらいだ。
しかし若いころは、松本くんですらそんな覚悟で仕事していたのだ。
そう思うと、あらためてアイドルやら芸能界やらの世界の大変さに、気付かされる。
指揮台にのぼりはじめた十数年前、今の自分あてに手紙を書いてたらどんなことを書いたかな。
「まだ吹奏楽の顧問やってますか?」
やってるよ、あいかわらず。学校もつぶれず、解雇もされず、好きにやらせてもらってるから。
たいした指導もできてないのに、ついてきてくれる部員にも恵まれてるし、こまったときは助けてくれる友達もできてるから心配しなくていいよ。
ただ、普門館とか、笑ってこらえてとか、そんな話にはならないから。
嵐のこの10年の成長に比べて、こどもができたこと以外になんの成長も自分はしていない、とクドカンは自分のことを書く。
そんなことはないでしょ。本気で言ってる? ひょっとしたら本気かもしれない。
男30歳から40歳過ぎの期間において、自分は中身がすごい成長したと言い切れる男子はたぶんそんなにはいないから、そういう感覚かもしれない。
しかし、クドカンさんは「あまちゃん」を書き切ったではないか。
この先どう展開するかわからないけど、あまちゃんフィーバー(この言い方古いかな)はますます盛り上がるだろう。連続テレビ小説の、いやテレビドラマの歴史に残る作品として語り継がれるものになることは間違いない。
この先ももちろんいい作品をつくりあげていく方だろうが、「あまちゃん」は、業田良家氏における『自虐の詩』の位置づけのような大作になるにちがいない。
だから、三日分かな、観てなくてたまっているのを、はやくみたい。
学年だより「見通し」
試験、おつかれっす!
先日、返却された河合模試の結果をみて、そろそろやばくね? と思った人も多いのではないだろうか。その瞬間の気持ちは今も続いているだろうか。
今日は開放感とともに、そろそろ身を入れて勉強にも取り組んでいこうという気持ちで、これからのことを考えてみませんか。
みんなの現状を客観的に考えたとき、正直言って、この夏はけっこう大事だと思う。
この夏に少し体質をかえておかないと、ずるずると堕ちていくだけになっていく危険性がある。
「学年+1時間」の勉強がふつう必要だとよく言われるが、授業や部活のある平日にそれだけの時間をとることが物理的にも難しい人も多いことは、わかっている。
しかし、授業(講習)はあっても午前中だけ、ない日も多いこの時期に、最低限の勉強時間がとれないまま過ごすままで、みんなが書いている志望校に入れるほど入試があまくないのも事実だ。
具体的には、「週単位」でこれくらいのことを積み上げていこうという計画の立て方がいいと思う。
「10日間単位」という手もある。キムタツ先生が、先日のブログで、こう述べられたいた。
~ 秋が始まるまでに全教科の土台を固めたいものです。秋が始まるまでちょうど60日です。
10日ずつに割って、6つの計画を立てましょう。
間違っても日課表は作ってはダメですよ。今日の分を失敗するといきなり明日にしわ寄せがいきます。
7月10日までに絶対にここまで覚える。
7月20日までには絶対にここまで完璧にする。
こんな感じで8月31日までの計画を立てましょう。
れぞれの計画が潰せそうになければ最後の3~4日は徹夜するつもりで。
それぐらいでないと何事も成し遂げられませんわな。
自分の人生の土台を作ってるんやという気持ちで、四の五の言わずにしっかり自分を鍛えましょう。自分に厳しく。自分に厳しく。 (キムタツブログ「もっと高く!もっと遠くへ!」7月1日記事より) ~
明日から10日単位の計画を立てるなら5期間ある。10日あれば、一学期の数学を完全に立て直すとか、英語の宿題やりきるとかの大きめの仕事量を設定することもできる。2年の今だったら、苦手科目にじっくり時間を割くこともできる。ていうか今しかない。
週単位なら7週ある。部活の合宿や行事で、勉強時間がとれない期間もあるだろう。そういう時期は逆に思いきり部活に打ち込んでしまった方がいい。大事なのは、計画をつぶせそうにないときにも、無理してやりきることだ。その厳しさが「人生の土台」をつくるのだ。
試験三日目。暑い。明日の試験が終わると、コンクールに向けての練習が本格化する。
監督しながらすでに、コンクール終わったら歌いに行きたいなとか、文化祭は何歌おうかなとか、考えてしまった。先日部屋を片付けてて昔つくったCDを見つけたが、コブクロ「YELL」、松たか子「恋しい人」、カブ「日吉」、SMILE「大切な人」とかシブい並びになっていた。きっと当時弾き語り候補曲のつもりでつくったのだ。ちょっと聞き直してみよう。新しいとこでは福山雅治「誕生日には真白な百合を」も捨てがたい。
9月に行う予定の新しい演奏会についても、メールでやりとりしていて、これも楽しみになってきた。
でも。その前に。やるべきことをまずきちっとやる。
課題曲のコードをちゃんと理解する。「大阪俗謡」の暗譜。メンバー一人一人のチェック。応援曲の準備。暑い夏になりそうだ。
部活もなく、用事は夕方入っているだけの日曜の朝、のんびりとニュース解説風の番組を見てたら、エジプトでデモが起きるシステムが理解できた。
「とうひマネーって何?」うしろから娘が問う。とうひじゃなくて投機ね。
「投機」という単語を知らなくても、某有名私大には入れるのだなと思いながら、「投機」っていうのは、機会をつかんでお金を投じるって書く言葉で … 、と説明したが少し通じた。自分もよくわかっていることばではないが、漢字のおかげでそれっぽいことが言える。
娘を駅まで送ったいきおいで登校し、採点デーにすることにした。あさってから充実した部活ライフを送るためには日曜を大切に使わねば。
生徒さんが勉強している間も、けっして先生は遊んでいるわけではないことをアピールしておく。
現代文のテストで、市販の漢字練習帳から範囲を決めて毎回10点分出している。
ここで国語の力がけっこう現れる。他の科目の勉強に時間をとられて今回は漢字パスした的な子もいるが、それでも勉強の基本的なやり方を知っていると、それほど苦労する量ではないはずだ。
センター試験では本当の国語の力はわからないという学者先生もいらっしゃるが、丸付けしていると、逆にセンターどころか漢字10点分でだいたいの国語力が見えてくるんじゃないかと思う。
たとえば「カイコ趣味の柱時計」の「カイコ」を「回顧」でなく「懐古」と書けるのは、漢字というより語彙の問題だ。勉強するときに「古(いにしえ)を懐かしむ」と返り点で返して意味を覚えると、なお定着する。
「大学のコウギ」を「講議」と書く間違いはよく見かけるが、これも「義(意味)を講じる」と返して理解できるといい。
「故人のイシ」も「意志」ではなく「遺志」と書くには、語彙として知ってないといけないし、「遺失物」「遺産」でも使う「遺す(のこ)す」を知っているといい。
形やら画数ではなく、語彙的に漢字を覚えることが大事だが、これこそ国語力だ。
言葉は存在しながら、その定義を誰もできていない「国語力」なるものの最重要要素の一つであることは間違いない。
ちなみに東大の二次試験に出題される漢字は、画数や字形ではそんなに難しくないものの、文脈をつかめてないと、間違えやすいものがさりげなく出題されている。
理系の人は二字の国語80点満点のうち5点が漢字。
漢字以外の現代文35点のうち半分とれる受験生は理系にはそんなにいない。漢字をおろそかにさせてはいけないな。ちょっと気合い入れよう。
せっかくなので、ちょっとマニアックな資料だが、東大で出題された漢字問題二十数年分を載せておきます。
80年 a自己犠牲 b至難 c絶句
81年 a四散 b匹敵 c依然
82年 a苦肉 b効用 c捨象
83年 a奨励 b徒党 c事大
84年 a肥大 b発露 c拡散 d駆使
85年 a輪郭 b厳密 c試行錯誤
86年 a操作 b微細 c超越
87年 a熟達 b現前 c傑作 d滑稽
88年 a凝固 b顕現 c均衡 d謙虚
89年 a頑丈 b散策 c警鐘
90年 a鋭敏 b哀切 c抑圧 d絶妙
91年 a我慢 b凡庸 c代物 d妥協
92年 a意想外 b強要 c寸断 d粗放
93年 a体する b対極 c出自 d決断
94年 a講じる b浸透 c帰結 d劣化
95年 a輪郭 b判然 c交渉 d契機
96年 a未熟 b遺物 c逸脱 d曇る
97年 a勘案 b属性 c探索 d忘却 e念頭
98年 a厳密 b拘束 c拡張 d悲惨 e鍛える
99年 a染める b襲う c埋没 d自明
00年 a微妙 b局地 c脅かす d維持 e犠牲
01年 a激励 b排除 c普遍 d媒体 e崩壊
02年 a空疎 b錯覚 c模倣 d抱擁
03年 a未練 b停泊 c託宣 d墜落 e被災
04年 a侵害 b匿名 c抗争 d源泉 e促進
05年 a卓越 b飛躍 c顕著 d帽子 e魂
06年 a沈殿 b厳然 c要請 d従容 e克服
07年 a通念 b統御 c流布 d融和 e叫喝
08年 a散逸 b超越 c機会 d信仰 e矛盾
09年 a吟味 b器量 c真偽 d回避 e成就
10年 a防壁 b維持 c攻撃 d皮膚 e保護
11年 a跳 b断片 c抑圧 d阻害
12年 a枯渇 b効率 c秩序 d浸透 e交換
13年 a首尾 b逐語 c摩擦 d促す e示唆
ちなみに「維持」「浸透」「厳密」「犠牲」「超越」といった語が、過去に複数回出題されてるが、これって埼玉県公立高校入試問題にも出てもおかしくない言葉ではないだろうか。
アイドルとは何か――。「あまちゃん」の大きなテーマの一つであろう。
人に力を与える存在、夢を与える存在、元気を与える存在、生きる力を与える存在。
生きていくことが時につらくなっても、その存在のおかげで、自分もがんばろう、生きていこうと思わせられる存在。
だから、なんでもない人が、ある人にとっては「アイドル」になることもある。
「あまちゃん」の後半では、そんなことも描かれるような気がする。
小泉今日子さんはじめ、きら星のごとくあらわれた80年代アイドルはまさにアイドルだが、われわれ世代が小中学校時代にあこがれたアイドルは、もう少し年上の方々だ。
昨夜、渋谷の、300人ぐらいのハコでの太田裕美さんのライブにでかけ、隣の席のおばちゃんがどん引きしてるであろうと思われるほど号泣しながらステージで踊り歌う彼女を見つづけ、よし明日からがんばろう、生きていこう、何があっても彼女は自分の人生を認めてくれるのではないかと思った。
「いつものライブとちがって、ロックな夜と名付けてやります」という言葉の通り、テンポが早めで、ナゴミーズでは聴けない曲が多かったのもよかった。伴奏はエレキギターとアコギの二本のみで、何曲か裕美さんのギターやピアノが加わる。ギター二本伴奏の「ドール」「シベリア鉄道」は大人な感じで絶品。そして「ひぐらし」。「袋小路」とともに荒井由実作曲のこの名曲は、ステレオの前で身を固めて聞き続けていた中学校時代に、一瞬にしてタイムスリップさせる。
いくつになっても、ビジュアルはお互いにかわってて、中身もそれなりに変わっているけど、彼女の存在と自分の心の関係はいつまでも変わらない。
辻村深月氏の直木賞受賞第一作だという。かりにこれが候補作だったなら、選考委員の先生方は話し合う必要もなく全員一致で選んだろうと思う。選考委員の先生方の最近の作品で、これを越えるものがあるかっていったら、そうはあげられないと思うくらいだ。とにかく、後半はすべての仕事を中断して、目頭があつくなるのをこらえながら読んだ。余韻にひたりながら、今日もう一度最初からページをくっている。
物語の舞台は、瀬戸内海に浮かぶ架空の島「冴島」。本土からはフェリーで20分ほどの距離にある。
~ 人口三千人弱の島に、中学校まではあるものの、高校はない。朱里(あかり)たち島の子どもは、中学を卒業すると同時にフェリーで本土の高校に通うことになるわけだが、その時に、諦めなければならないことがあった。 … 朱里と、衣花、新、源樹の四人は、ともに冴島で育った同学年で、高校二年生だ。そして本土と島を繋ぐ最終便の直通フェリーは午後四時十分。
そのせいで、島の子どもたちは部活に入れない。 ~
冴島の子ども達は、高校の部活動ができないのだ。
島で暮らすかぎり「熱闘甲子園」にも「笑ってこらえて」にもでられない。もちろん水バなど経験できない。
「諦め」。
今の日本において、都会ではほぼすべて、地方でもかなりの部分失われてしまった「地域共同体」の姿が、冴島には今も色濃く残っている。
島に生まれた子どもたちは、高校での部活動を諦め、大学に進むためには島での暮らしを諦め、島に残る人生を選んだ者は、会社勤めとか、盛り場で遊ぶとか都会的な暮らしを諦める。
諦めるとは、自分の人生を自分で選択することでもある。
でも、それはある意味幸せなことではないだろうか。地に足のついた人生を送るためには。
たとえば国語の時間に作文を書きなさいと言われて、「題材はなんでもいい」と言われるのと、「決まったテーマ」を与えられるのとでは、圧倒的に後者の方が書きやすいはずだ。
「自分の人生は自分で決めなさい、なんでもいいですよ、なんにでもなれますよ、無限の可能性がありますよ、さあそうぞ」って言われたら、うれしいというより、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
自分はいったい何になればいいのだろう、どこで暮らせばいいのだろう。
サッカー選手になるのか、小説家になるのか、役者を目指すのか、学校の先生になるのか、外資系の銀行に勤めるのか、ガテン系でがっつり稼ごうとするのか、まったくのゼロベースでどれかを選べと言われたなら、途方にくれるのが普通の人間だろう。
学校は、理論的にはそれをせよという。
一方で、学校に身を置くことによって、勉強のできるできない、運動のできるできない、工作が得意、人をわらわせるのが好き、歌が上手いとかに気付くシステムにもなっている。自分はどういう人間かに気づけるのだ。
「絶対的価値をもつ個」の存在を理論的に認めながら、他人との比較でしか「自分」てわかんないよね、というダブルバインドを無意識のうちに感じさせるのが学校の役割かもしれない。
でも理論上は無限の可能性を持つ「個」が存在することになってもいるので、「自分なるもの」をいつまでも見つけられない人も多い。
地域共同体で生きていれば、そんなことはなかった。
自分の人生がどんな風になるかは、早い段階でめどが立った。
その像がいやなときは、意を決して共同体を飛び出すしかない。
冴島で生まれた子ども達は、島で生まれ育った以上いろんなタイミングで「諦める」べきものが設定されているがゆえに、本土の子ども達よりも早く、そして強く覚悟を決める。
それは子どもから大人になるということでもある。
都会で暮らしている人たちのように、いつまでも子どもか大人か判別のつかないようなメンタリティでは生きていけないのだ。
だからこそ、島の子ども達がこどもから大人へ覚悟を決めて踏み出していかねばならない時期、つまり青春期のせつなさと愛おしさが、この物語から伝わってくるのだろう。
人気のガリレオシリーズ。主演の福山雅治氏はもとより、脇を固める役者さんもみな達者。
杏さんも美しいし、子役の子もよかったし、映像もよかった。
物理学者湯川が方程式を解くように問題を解決する姿より、人間ドラマを描いた作品だったって、思う人が多いのだろう。そうなんだよね。みんなそれぞれの役柄を上手に演じていた。
ただし殺人事件そのものの設定があまりにも雑だ。そういう人間性をもち、そういう人生を送る人が、そんな風に人をあがめることはない(いちおう内容にふれないように、指示語ばかりにしてみた)。
まさにありえない。あってもいいけど、それだったらちゃんと説明しないと。
高村薫みたく何百頁分も費やせとはいわないが、これはないんじゃないかな。
罪の一部を無自覚のうちに背負わされることになった少年もかわいそうだ。
いくらエンタメ作品とは、人の命をここまで軽く扱うのなら、いっそ「悪の経典」レベルにいってしまった方が誠実なのではないか。
どんなに人を愛していようと、どんなに大切な人を守るためであっても、何の罪もない人が(罪があってもだけど)命を落とす設定は、あまりに非倫理的だ。
罪を犯した人を「いい人」ぽく描けば描くほど、やりきれない。亡くなった人の家族にはどう説明するんだろ、って思いました。ていうか、作った人は、観客をおなめになっているのだろうか。
一時間目のクラスで、教壇のすぐそばの生徒さんが、かえってきた模試の結果を見てた。
ちらっと見て「やばくね?」と声をかけると、「ですよね。先生こんな感じでも、大学行けますか?」
「やばいって思って今からやり始めたら、ぜんぜん余裕だから」
「がんばろうかなあ」
そうそう、おれも昔、そう思ってたよ。
でも高校2年のときに心入れ替えて勉強をし始めたかと言えば、そうではなかった。
さすがに高校3年の後半は少しはやった気がする。
それでも、「いいかげん、やばくね?」的な声が常に聞こえていた。
で、その後どうなったか。大学でも、そろそろ本気出して勉強しようかと思いながら、のんべんだらりと六年通い、就職してからも少しは勉強したけど(切羽詰まっていたので)、いまだに「そろそろ、やばくね」って声が時折聞こえる。
映画は、大黒シズオの内面をイメージ化したシーンから始まる。
「神様」的風体の堤真一が、シズオに向かって語りかける。
「やばくね?」「いいかげん、やばいっしょ」
42歳にして勤めていた会社を辞め、漫画家の道を目指し始めたシズオ。
かといって、ひたすらマンガを描き続けるわけではなく、テレビゲームに興じたり、朝酒してしまったり。
First Kitchenでバイトをして、小遣い程度は稼ぐ日々。
高校生の娘が一人。奥さんどうしたんだっけ?
同居する父親の年金が大黒家の一番の収入源だろうと思われる家族状況。
誰が見てもやばい。
その年で漫画家目指すと言ってること自体、傍(はた)から見たらイタい。かたはらいたし。
バイト先では年齢ゆえに「店長」とあだ名で呼ばれるが、20代の本当の店長からは叱られるわ、バイト仲間に誘われて行った合コンで若いおねえちゃんから「ちゃんとした方がいい」と言われるわ。
ただ … 、不思議と不幸には見えないのだ。コミック読んでたときも同じ感覚だった。
なんでだろう。
かりにシズオが現実の友人だったりしたら、どうだろう。
生瀬さん演じる友人の宮田が、「おれ、おまえがうらやましいよ」と呑みながらつぶやくシーンにはげしく同意してしまったが、そんな目で見るような気がする。
自分のやっていることが100%正しく、何のまちがいもなく日々を過ごしているという確信のある人って、たとえば100人のうち何人ぐらいいるのだろう。
商売柄「自信をもってやるべきことをやれ、道は開ける!」と時々語る。
一方で、まあ、人生ちゅうもんはなかなか思い通りにはいかへんからねと思う自分もいる。
かりに、すべてがうまくいく人生があったとしたら、かえってつまんなくない? てか、あきんじゃね?
シズオを見てて感じる不思議な愛おしさは、たぶん自分の人生に対するそれだ。
大人になればなるほど、しみてくる作品だろう。
あ、不幸に見えない明らかな理由はあった。
娘と父親の存在だ。
友人だったら、「おまえはいいよな」と言ってられるけど、一緒にくらす家族だとそうも言ってられない。
父親はシズオに愛想をつかしながら見捨てないし、娘の橋本愛ちゃんはグレたっておかしくないのに、けなげに家事をこなす。
人柄なのかな。
実は娘の鈴子には、コミック5巻で描かれた厳しい現実がある。
二時間の尺で、そこまで描くのは難しかっただろうが、その背景を知ってる身には、彼女の笑顔を見るだけで泣けてくる。それにしても自分が語る必要など何もないけど、すごい女優さんだ。
編集者の浜田岳くんも、やる気はないけどちょっと怖い感じの若者の山田孝之くんも、実力を発揮しまくっていたし、マニアックなことを言うと看護婦役でちらっと出た池谷のぶえさんまで、ぴたっとはまっていた。これが日本映画の真骨頂だと思えるくらい愛おしい作品だ。
まさかこんな映画になるなんて … と一番感慨深いのは、おそらく原作者の青野春秋さんだと思う。
ああ、続編観たい。コミック番外編「俺はもっと本気だしてないだけ」に、本気でシズオを好きになる女の子が登場する。ブックデザイナーの上野マキ。この役はぜひとも成海璃子さまにおねがいして、続編つくってくれないだろうか、福田雄一監督。
学年だより「皿回し」
「ものがなかなか覚えられない」「自分は暗記が苦手だ」という人でも、たとえば親の顔を覚えられない人はいないはずだし、自分のなまえを言えない人はいない。
しつこいようだが、暗記は繰り返しだ。
個人的な脳のキャパシティの問題とか、機能の問題ではない。
繰り返しインプットされる情報は重要と判断するように、生き物として設定されているのだ。
キムタツ先生は『ユメタン』についてこう述べる。
~ 僕はこの単語集を作るときに、ある落ち着きのない脳科学者の本をたくさん読みました。彼の本には、「人間の脳は、記憶するために新情報が入ってくると旧情報を押し出す」と書いてありました。月曜日に1〜10、火曜日に11〜20、水曜日に21〜30と10個ずつというのは、まったく力のつかないやり方だということが判明したのです。
新情報が入ってくると旧情報が押し出される。だから旧情報をなんぼ覚えてもだめなんです。ただ、旧情報が“鉄板”になる条件があって、その覚えようとする情報が、個人のサバイバルにかかわるものだと脳が認識した場合は忘れないのだそうです。effort、dawn、supplyなんて単語はサバイバルにかかわるのでしょうか? 実は脳は何度も入ってくる情報に関しては、けっこう簡単にサバイバルに関係あると誤解してくれるのだそうです。「もしかしたら、こいつを忘れたら死ぬんじゃないか?」とね。
だから僕は、生徒にいつも「テストに出るから覚えなきゃなんて思ってやってもつまらない。脳をだますゲームだと思って何回も口に出してみろ」と言っているのです。 (木村達哉「灘高は英単語をこう教えている」東洋経済ONLINE) ~
効果的に「脳をだます」ためにも、目で見て、手で書いて、音声を聞いて、声に出して言ってみてという作業が大切になる。
覚えられないのは、純粋にその作業量が不足しているだけだ。
ただし、十分な作業量があって、自分ではしっかり覚えたつもりでも、そのままほおっておくといつの間にか記憶がなくなってしまう。
これは倉庫の奥深くにしまわれてしまった状態だ。
せっかく長期記憶化させた事柄は、繰り返しアクセスし、使える状態にしておかねばならない。
新しい内容を勉強したら、それによって前に覚えたことを押し出してしまうのではなく、それらがつながっていくようなメンテナンスをしていく必要がある。
最初に回し初めた「皿回し」のお皿が落ちないようにしながら、どんどん新しい皿をまわしていくのが、おおまかな勉強のイメージだと思えばいい。
皿を落とさないためにも、前号で書いたように応用問題を解くことが大切だ。
応用問題はスポーツで言えばゲームにあたる。基本的な動きを無意識に使えるようにする「素振り」の練習と、実際にそれを使う「試合」の両方が勉強には必要だ。