「五月雨は腹の中まで腐らせる」などと、ジワ~っと陰気に降る長雨を、昔の人は嫌ったようである。
さみだれに限らず、梅雨の長雨もまた同じように嫌われるのは昔に限らず、今でも似たような傾向にある。
本当は、一年の中でも、この時季にしっかり降って、水がめとなるダムを満杯にしてこそ、夏場の水不足を心配しなくていいし、農作物みな、この梅雨の恩恵を受けていることをわきまえるべきなのだが・・・。
カビが生えそうな鬱陶しさにうんざりして、兎に角早く梅雨が明けて、あのギラギラまばゆい太陽を拝みたい、などと単純に思ってしまう。これもまた人情。まさに同感である。
そんなところから、梅雨よ早く上がれ、早くどこかへ行ってくれ、と願う気持ちが「送り梅雨」という言葉を生んだのだという。
ただ最近の梅雨と言う名の雨には“頃あい” “手加減”という優しさが見られない。
降り始めたらとことん降る。しかも一局集中、大きな災害が出るまで降る。というか裏を返せば、生活の利便性を追い求めるゆえに、雨など自然災害にもろい国土整備がなされている、とも言えるのかもしれない。
7月に入ってうんざりするほどの雨が降り続き、挙げ句に大きな雷を伴う強い雨が降ると、それを境に梅雨は上がった・・・と昔の人は判断していた。その後2・3日の日照りが続き、さらにまた大雨を降らすのが「帰り梅雨」とか「戻り梅雨」と呼ばれる。
確かにいやな長雨ではあるが、農作物の成長を促す雨に感謝し、送り梅雨とか戻り梅雨、などという風雅な言葉を考えてみると、なんかしら全てが楽しく思えてくる気分無きにしもあらず・・・かな。
ところが、そのようにして一旦梅雨が上がった途端に、36度だ39度だと、お風呂に浸かっているような高温の到来。
今度は熱中症で大騒ぎをしなければならない。
雨が続けば晴れを待つ。晴れが続けばすぐに雨を恋しがる。
こんな人間の意地悪さを、天の邪鬼(あまのじゃく)という。昨夜の七夕様の夜空を彩るのは天の川という。カンケーないか。
最後にはやはり、『自分の身体は自分が守る』基本に立ち返るようである。気をつけましょう。お互いに。