近頃色んな場でお目にかかることの多い「協」という字。
力という字が3つあって、それを足すと書かれている。字面を見ただけでなんとなくうなずけるような意味合いを感じる。
さらに、協商・協伸・協信・協進・協定・協同・協約など、協の字が使われている述語はたくさんある。
そんな中でも「協働」・「協育」という言葉が新鮮な感覚で耳に飛び込んでくる。
もともと「協働」という言葉は、「コラボレーション」という意味を持ち、異なる二つ以上のものが、同じ目的で協力し合うことのようである。
「今夜はトランペットと二胡のコラボレーションが楽しめる」などと用いる。
さらに進めると、立場の異なる人と人が、支え合い助け合って生活する「人間同士の触れ合い」にも協働という言葉が使われている。
「協働」は高齢化が進み、一人暮らしの高齢者が多くなった社会現象に欠かせない「互助・共助」の精神文化と言えようか。
突発的自然災害からの救助、ゴミ出しや買い物の支援など、どうかすると行政だけでは補えない部分を、民間有志が立ち上がって住みよい街づくりを考えようということのような。
今一つ「協育」とは、「今日行くところがあるか」という「きょういく」ではない。
学校を中心として、親も地域社会も、行政も一緒に協力して、地域の子どもたちを健全に育て上げようという取組である。
こちらも、学校や行政だけでは満足な施策が出来ない部分を、民間が協力するネットワークを作って学校教育をサポートするのである。
高齢化とは異なって、少子化なのだから、教育は十分行き届きそうなものだが、親の教育力の低下と、我が子の教育に時間をかけられない若い世代の生活様式の変化が見え隠れする。
「協働」も「協育」もこれからの社会生活に欠かせない重要性を帯びてくるのだろう。
では誰がどのような形で、何をするのか。これが問題であり、完全実施に至るまでには多くの課題がある。
でも、いつかは、どこかで、誰かが、やらなきゃならないことであることも理解できる。
「向こう三軒両隣」のお付き合いが希薄になり、小集団活動の基礎である自治会活動が弱体化した現在。
さてどうやって「協働」や「協育」の流れを作っていくのか。難しい世の中になったものだ。
さてどうする?誰がやるのが一番の適役なの? あまり声を上げると、天に向かったツバすることになり兼ねない。クワバラ、クワバラ。