落ちこぼれだった梅が、これ程に成長し見事な花を
何年前になるだろうか。手入れを続けてきたカミサンの里の小さな梅林ではあるが、60kgを越える豊作を見せたことがある。
知人友人やご近所さんにも配り、大変喜んでもらったことから、青梅外交と名づけた年があった。
そんな豊作だったから、ウメボシも梅酒も梅ジャムも、粒の大きな形のいい方から調理していった。
最後に残ったのは、虫が付きかけたものや選果から漏れた小さな梅ばかり。残ったこの梅はさてどうするか。
どうかすると持て余し気味のちっちゃい梅の実。それでも不作の年であったならこの梅の実も、本来の役割を全うできたのに。たまたま、余るほどの豊作の前では、隣接する広大な空き地に埋めるしかない。
決して最初っから落ちこぼれたわけでもないのに、当たった年が悪かったという不運である。
学校を卒業して就職を目指す若い人にとっても、この運・不運は必ずついて回る。卒業年次を迎えたとき、ほんの少し経済環境がよければ売り手市場になり、こちらが選んで希望を叶える場合もある。その逆だと、就職氷河期などと呼ばれ、完全な買い手市場で就職もままならない。
当人に関係ないところで、売り手市場だったり買い手市場だったりする。不合理というほかない。
幸いなことに、我が家の二人の子供は、先ず先ずの景気に支えられて、就職戦線を突破することができた。
しかし、ここにきて、大企業でさえ採算性最優先で、地方工場は閉鎖しでも、体力維持を図ろうとする。厳しい世の中ではある。
さて、何年か前に調理の仲間から外されたちっちゃな梅の実は、隣の空き地に捨てられた。
この空き地は、今や地主さんが亡くなって荒れ放題。ここ数年草刈りの一度もされていない。どうかするとタヌキだって生息しそうな不気味さを持っている。迫り来る大藪を撃退するため、老体にムチ打って畑作りをしている。その向こうの藪の中に放り投げたあの青梅が、生い茂る草の中で、どうやって土にもぐったのか、根を生やし、何本もの若い梅の木が成長した。
密集して生えたのを植え替えてやったり、消毒もしてやった。そんな恩義を感じてくれたのか、今年で10数本が順調に生育した。
そのうちの1本は昨年から。他の3本が今年初めて見事につぼみを付けた。つぼみをヒヨドリやキジバトに食われることなく、これほどに花をつけた。カメラに収めるに十分な大粒の梅の花。見ごたえもあるし、芳香を放つのがいい。スコップ片手に植え替えるとき、この荒れ地を梅林にするのも悪くないなとふと思ったのは事実である。
その昔、水戸の偕楽園に梅見に行ったことがある。あの広さには遠く及ばないが、何種類かの梅を咲かせ、6月の梅もぎを楽しみにしようか。
それにしても、調理の仲間に入れなかったあのちっちゃな梅の実が、いまこうして見事に花開いている。
部分的に我が人生と重なる思いがして、真っ白く誇らしげに咲いている梅の花を褒めてやりたい。そしてありがとう。