(モノクロですから昭和40年代でしょうか。わが村は手前の山裾に隠れて見えない)
(軟弱な子供だったようで、蕎麦を母の半分、いやもっと少なく背負っています。
軟弱では無く、母が可愛い息子に沢山背負わせたくなかったのかも知れません。写真は以前にもアップしています)
山の上に畑があった(その1)
上越線北堀之内駅の真上、標高差140メートルほどの山の上に畑がある。
上越線と山の畑の間には崩れやすい砂利層を含む、第四期魚沼層などで形作られた急斜面が存在する。
北堀之内駅の少し東京よりに九十九折れの細い道があり、杉林や雑木林を縫って畑のある平らな部分まで続く。
急峻な斜面に作られた道は嫁泣かせの道でもあったらしいことを最近知った。
近隣の村々には、「下島には嫁にやるな」と言う言葉さえあったとか。
畑に肥料を運び上げるにも、収穫物を下すにもその道を使うしかなかったのだから。
下のきれいな風景さえ楽しむ余裕など無かったのでしょう。
あまりにも急峻な山道は鍛えぬいた人々の足をもっても苦しいかぎり。
山頂も含め、途中には4か所の休み場があった。
名前は良いけれど、休み場なんて名ばかりで道の脇の土を削り、腰かけられるようにわずかに平らにしただけ。
背中の荷物を下ろすことなく、腰かけて、息を整えて再び登る、または下るための場所だった。
そんな急坂を小柄で華奢な母も、時には「肥樽」と呼ばれる下肥を詰めた樽さえ背負って登ったのでした。
では、下りは楽かと言うとそうも行かない。サツマイモ、大根などの重い作物は背負う荷縄が肩に食い込み、
身体中の血液が全て足に下りてくるような感覚に苦しめられる。
ようやく下に着き、荷物を下ろすと血液が元に戻る感覚で身体が空中に浮きあがるような感覚を覚えたものだった。
(続く)