(昭和40年代の初めころでしょう。国道脇に電電公社の白い無人中継所。そのこちら側がふるい我が家。
昭和32年に駅前に初めて我が家が建てられ、その後1軒増えて今は5軒の家が建つ駅前です。)
(二人の娘たちも良く山の畑に連れて行きました。この頃は自動車用の道路が出来て10年くらい経っています。
娘たちも、いつも山の畑に親しむ暮らしでした)
山の上に畑があった(その2終わり)
五十戸余りの村の中で、山に畑を持たない家は数えられるくらいに少なかった。
ほとんどの家の母親たちは雪のない間は春から秋まで、その苦しい山道を往復して畑仕事に励まざるを得なかった。
そんな苦しい作業の中で母親たちの楽しみは山道を往復する際に交わす世間話。
遠くの畑から作業を止めて昼上がりのために帰宅する。「上がりにしょうぜー」なんて、
声を掛ける母親たちの声が耳に蘇る。
荷物を背負って苦しい息だったら会話も難しかったと思うが、軽い農具だけをもっての往復だってあったし、
昼上がりなど空荷と呼んだ、手ぶらでの往復だって時にはあったのでした。
そんな山の畑が村には「上の原」「牛ヶ首」と二か所あり、そのうち「牛ヶ首」など遠くて、
我が家からは三キロ以上も歩かなければならなかった。
そんな遠い畑にも昼食など滅多に持参せず、一日に二往復もしていたのだったから、健脚でした。
いえ、健脚にならざるを得なかった。
昔と言っても私は終戦後に生まれた、戦争を知らない世代だが、
昭和三〇年代に入るまでは食べ物も十分とは言えず、山の上のみならず、
山裾の僅かな砂利混じりの土地さえ耕して畑にしていました。
皆が勤勉で苦労を苦労とも思わぬ、時代だったのだ。
小学生の頃から手伝いだか、遊びだかに母親に同行した私は、日暮れの道を下りながら、
仕事を無事に終えた気楽さからか、俳句を教えられたりしながら帰ったものだった。
(終わり)