五十年前の尾瀬紀行(その5)
此処から鷹之巣迄二里半、道は細いが好い。一里歩くと昔の鉱山跡に来た。谷合の梢、広地に鉱石の吹き殻がうず高く今は風雨に晒されて、一面草におおわれている。右手の山の腰根には、昔そのままの坑道の入口の穴が幾つも不気味にあいている。近づいてみると可成り大きなもので、坑道は皆繋がって、長さや深さは知る術もないが、流れる只見川の下をくぐって延びていると言うことだ。入口の付近には無数の無縁仏の墓が立ち並んで、往時を偲ばせるものがあった。
最盛期にはどれ程の人が此処に集まったものか、未だに骨投沢、傾城沢の地名も残っていた。所謂銀山の名称は、ここからつけられたものかと思われる。
ここから一里半、鷹之巣部落に来た戸数は、十二、三戸か立派な部落だ。この部落は隣の福島県桧枝岐の部落と交流があり、縁組も行われていると言う。此の部落の人達はぜんまい取りやわらび等、山の幸を採集し、又年中家内工業のくり木細工をしていた。我々一行を温かく迎えて、いろいろと山の生活の話をしてくれて、情愛の細かな雰囲気が如何にも嬉しかった。
(続く)
第一回にも書きましたが、昭和55年時の文章で、本文と題名の経過年数が違います。