鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

宮ノ前・詳細不明の石造物

2009-12-16 | 藤沢


空乗寺の山門を出て、そのまま真っ直ぐ進むと、道路沿いに石造物に出会います。
ここには道祖神が2基並んでいました。
右は嘉永5年(1852)正月の造立のようですが、左は詳細不明です。


すぐ近くの塀のくぼみにも馬頭観音の石碑がありました。
石片に文字を刻んだだけの簡潔な石碑です。


少し進むと、小屋の中でよだれかけをまとい、花も手向けられた像がありました。
地蔵菩薩か観音菩薩か、詳細不明です。
宮ノ前では詳細不明の石造物が大事にされています。

空乗寺・大橋重政の墓碑

2009-12-15 | 藤沢


首塚の碑から少し南に行くと空乗寺があります。
永禄年間(1558~70)の創建で、当地の地頭大橋重政がその敷地を寄進したようです。


境内の奥に、宝永元年(1704)造立の大橋重政の墓碑があります。


大橋重政は徳川家光の祐筆で、大橋流書法を広く普及させた人物のようです。
空乗寺の左手に大橋動物病院があり、空乗寺の住職も大橋姓でした。
それぞれ大橋家の子孫なのだろうと推測しました。

公民館前に首塚の碑

2009-12-14 | 藤沢


万福寺から少し南に行くと、右手に宮ノ前公民館があります。
公民館の前に、首塚の碑と庚申供養塔が並んでいます。


首塚の碑は、明治12年にここにあった小塚を掘ったところ、
2人分の遺骨がでたので改葬して碑を建てたと伝わっています。
戦国時代の武将の遺骨といわれていますが、詳細は不明のようです。
改葬の経緯が碑文に記されているようですが判読できません。


隣にある庚申供養塔は江戸時代のものです。
大事にされていますが、かなり風化が進んでいます。

万福寺のイチョウのじゅうたん

2009-12-13 | 藤沢


皇大神宮前の地区は、その昔から「宮ノ前」と呼ばれています。
この地区でイチョウが立派な万福寺に寄りました。
入口の2本のイチョウ、右手は大分落葉が進んでいましたが、左手はまだまだ黄葉が輝いていました。


参道にはイチョウの落ち葉が一面に広がり、まるでイチョウのじゅうたんのようでした。
なるべくじゅうたんを傷めないように、境内に入りました。


万福寺は寛元3年(1245)の創建で、親鸞の高弟の源海が開山です。
浄土真宗のお寺らしく、本堂の入口に靴箱、傘入れが並んでいました。
信者が集まって講話を聴くためだと思われます。

法照寺のいたずら彫り道標

2009-12-12 | 藤沢


皇大神宮の近くにある法照寺を訪ねました。ここにある江ノ島道の道標を見るためです。
法照寺の入口の左手にある稲荷社の前にあるのですが、
傍の植木が茂りすぎて、肝心の道標がよく見えませんでした。


なんとか道標が見える角度から写真を撮りました。「二世安楽」と彫ってあります。


日陰になった裏側には「一切衆生」と彫ってあるはずですが、一番上の文字は「ニ」となっていました。


今年の春に新設された新しい掲示版に解説がありました。
かなり古い時代にこの道標の「一」の上に小さい「一」を彫り加えたようだ、とありました。
いつの時代も「いたずら」は楽しいようです。

師走の皇大神宮

2009-12-11 | 藤沢


師走の皇大神宮を参拝しました。
皇大神宮は鵠沼地区の鎮守様です。
一の鳥居から3つの鳥居をくぐって社殿に近づきます。


社殿に上がる石段の手前の広場は普段は参拝者の駐車場になっていますが、
さすがに師走、車は数台しかありませんでした。


皇大神宮は、天長9年(832)の創立で、
鵠沼地区は平安時代には伊勢神宮の神領・大庭御厨に属し、江戸時代には幕府の天領でした。
8月の例大祭には9基の人形山車が出て賑わいます。


社殿を取り囲む鬱蒼とした森にカラスが群がり棲んだので、別名烏森神社とも呼ばれています。
社殿の裏手には、烏森公園があります。

大礒散歩・旧吉田茂邸④

2009-12-08 | あちらこちら


銅像から少し坂を下り、竹林に入りました。
間引きが十分でないので、竹の姿を美しく保つのが難しいそうです。


竹林のはずれに、大きな古い鉄釜がありました。
吉田茂の養父吉田健三は、横浜南太田の実業家でした。
明治初期いろいろな分野で活躍しましたが、醤油の醸造も手掛けたようです。


近づいてよく見ると、山形の下に吉の字が浮き上がっていました。
「ヤマヨシ」という醤油だったのかも知れません。
明治17年養父が最初にここに別荘を建てたようですが、釜がいつここに置かれたのかは不明です。
旧吉田茂邸の庭園見学は以上で終わりでした。

大礒散歩・旧吉田茂邸③

2009-12-07 | あちらこちら


旧吉田茂邸の庭園南側の小高い丘に吉田茂の銅像が建っていました。
吉田茂は89才で亡くなりましたが、晩年の姿のようです。
ガイドがいろいろと資料を見せて説明してくれましたが、
人数が多かったので残念ながらよく聞き取れませんでした。


銅像に近い場所に吉田茂の「愛犬ポチの墓」がありました。
ガイドが案内した時には墓石は横になっていました。
あわててガイドが立て直しましたが、基礎が海風で風化したようです。
庭園の維持はなかなか大変だと思いました。

大磯散歩・旧吉田茂邸②

2009-12-06 | あちらこちら


敷地10000坪の吉田御殿、最初に案内されたのは内門です。
日米講和条約を記念して建てられたため、講話条約門と呼ばれましたが、
門の形から兜門とも呼ばれたようです。
本邸火災の後は、残った建物は側に近づけないようガードされています。


本邸は全焼し温室しか残っていません。場所を確認しただけで心字池に案内されました。
草書体の「心」を形とした池だと説明を受けましたが、
周辺を勝手に歩き回ることは出来ないので、あまり実感はありませんでした。


心字池から次の七賢堂へ行く途中の紅葉です。丁度真っ盛りでした。



これは七賢堂です。
岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝充、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂が祀られています。
吉田茂の生前時は、六賢堂と呼ばれていたのでしょうか。
ここもガードされていて近づけませんでした。

大磯散歩・旧吉田茂邸①

2009-12-05 | あちらこちら


散歩の予定を変更して、今年の春先に火災で全焼した旧吉田茂邸を訪ねることにしました。
火災の後、吉田邸の公開は中止されていましたが、
たまたま今日は公開されていると知り、足を伸ばしました。
午後1時まで入口で待ち、
大磯観光協会のボランティア・ガイドにグループ単位で案内と説明を受けました。

大磯散歩・旧東海道松並木

2009-12-04 | あちらこちら


国道1号線の大磯中学校前から大磯滄浪閣あたりに続く旧東海道松並木です。
約400年前、諸街道の改修の祭に植えられたものと伝えられています。


さすがに古い黒松の大木です。
そばで幹を眺めている人と比較すると、その太さを実感できます。


松の切り株と掲示がありました。
マツクイムシの被害にあって、平成6年11月に切られた樹齢217年の切り株です。
年輪のところどころに歴史上の出来事を記してありました。

大磯散歩・旧島崎藤村邸

2009-12-03 | あちらこちら


大磯駅近くの東小磯にある旧島崎藤村邸を訪ねました。
藤村が最晩年の2年半を過ごした家です。


日記のメモに「余にふさわしき閑居なり」と記し、大磯の生活を楽しんだようです。
ここで「東方の門」を執筆しましたが、第3章の途中で脳溢血のため生涯を閉じました。


藤村が最も気に入っていたと言われる書斎の窓です。
アケビのつるを編んだ格子があり、閉めるときは板戸を掛けるだけの窓ですが、
なかなか趣があります。

大磯散歩・高田公園

2009-12-02 | あちらこちら


御嶽神社から高田公園に向かいました。
大磯の展望台と言われている公園ですが、かなりの急坂です。
途中の道路標識も、かなりきびしい内容でした。


息をはずませてたどり着いた公園は、一見ごく普通の公園でした。
公園の説明によると、正式には「高田保公園」で、劇作家・随筆家の高田保を記念した公園でした。


公園の中に、高田保の墓碑がありました。建築家谷口吉郎の設計のようです。


公園から大磯の街並みをを眺めました。
海岸線に沿って松並木が見え、民家を中心とした落ち着いた街並みが続いていました。


足元に気を使いながらの帰り道、先ほど訪ねた御嶽神社の大イチョウが見えました。
しっかり黄葉し、手前の紅葉と一緒に日に映えていました。