鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

辻堂元町の松林

2010-01-16 | 藤沢


辻堂駅からそんなに遠くない辻堂元町の松林です。
この松林は駅に向う広い道路の脇にある緑の広場に隣接していました。
辻堂元町は昔の道がそのまま残った町並みで、道が自由に曲りくねっています。
松林の周りの道も、じつにのびやかで、行方を楽しみながら散歩しました。

松岡静雄先生の庵跡

2010-01-15 | 藤沢


鵠沼海岸3丁目にある松岡静雄先生の庵跡の石碑です。
ネット情報によると、「松岡静雄(1878-1936)日本の海軍軍人、
言語学者、民俗学者、最終階級は海軍大佐」とありました。
鵠沼に住んだのは退役後で、ここに神楽舎(ささらのや)を構え、
言語学、民俗学を研究し、多くの若者を指導したようです。
民俗学者の柳田国男は松岡静雄の兄ということも知りました。

座頭市ゆかりの家

2010-01-14 | 藤沢


鵠沼松が岡にある座頭市ゆかりの家です。
ここは子母沢寛の旧邸で、現在は空き家のようですが、今にも座頭市が現れそうです。
子母沢寛は実際には座頭市の小説は書かなかったようです。
随筆集に書いた原稿10枚程度の座頭市のイメージが映画化され、
新しいヒーローが作り出されたようです。

鎌倉芸術館の竹林

2010-01-13 | 鎌倉


藤沢在住の写真家富岡畦草の写真展を観に鎌倉芸術館に行きました。
富岡畦草は「定点撮影」で有名な写真家ですが、
今回は自分の子供の幼少期の写真の展示があり、面白かったです。
子供が診察を受けるお医者さんが、我が家と同じだったこともわかり、驚きました。


鎌倉芸術館の正面ロビーの先は、吹き抜けの中庭で竹林になっています。
毎回感心するのですが、四方ガラスで囲んでいるので、鏡のような反射があって写真が撮り難い場所です。
周りをぐるぐる廻って、反射が無いところを探して、竹林を撮りました。

稲村ヶ崎・今昔

2010-01-12 | 鎌倉


40年ほど以前、稲村ヶ崎の公園の海側の展望台から撮った写真です。
崖下で磯遊びをする人々、七里ヶ浜を散策する人々、遠く江ノ島が見えます。
七里ヶ浜の砂浜が現在よりも広々としています。


同じような景色を狙いましたが、公園の展望台は危険があるため立入禁止で入れませんでした。
出来るだけ崖下が見えて、七里ヶ浜、江ノ島が見える現在の写真です。
風が強く波が押し寄せるので、狭くなった砂浜が余計狭く感じられました。

稲村ヶ崎・由比ヶ浜から近づく

2010-01-11 | 鎌倉


西へ向う国道134号線は由比ヶ浜から稲村ヶ崎裏手の切通しを抜けて行きます。
切通しの右手は崖ですが、昨年崖崩れが発生し、現在も工事を継続中です。


新田義貞が鎌倉攻めで軍勢を進めて来た岬の突端です。
七里ヶ浜側よりこちら側の方が、危険な場所が多そうに見えます。
国道の工事や波消しブロックの設置等、地形の変化も考えられるので、
義貞の苦労を計ることは出来ません。

稲村ヶ崎・七里ヶ浜から見る

2010-01-10 | 鎌倉


七里ヶ浜から見た稲村ヶ崎です。
岬の形が稲穂を積み上げたように見えたので地名となったようです。


稲村ヶ崎の海に突き出た部分です。
元弘3年(1333)新田義貞がここから鎌倉へ攻め入ろうとしたようです。
崖際の道が狭隘で波も高く通れなかったので、
義貞が海に剣を投げ入れて念じると潮が引いて軍勢が渡れたという伝説になっています。



稲村ヶ崎・先ず公園から

2010-01-09 | 鎌倉


稲村ヶ崎をよく見てみようと思い立ち、江ノ電に乗りました。
稲村ヶ崎駅から5分で鎌倉海浜公園に着きました。
晴れていましたが、風が強いので、公園に人影はありませんでした。


ここは冨士山のビューポイントとして有名ですが、この日は冨士の姿が見えませんでした。
風が強いので、海は一面の白波でした。
七里ヶ浜の砂浜が削られて狭くなり心配されていますが、確かに砂浜が小さく感じました。

引地川の安全柵の絵

2010-01-08 | 藤沢


引地川の作橋、太平橋、富士見橋前後の護岸には遊歩道、自転車道が整備されています。
川沿いには白い安全柵があって、この柵にはいろいろ工夫をこらした絵が描いてあります.
但し、あまりそばに近づくと、何が書いてあるか分かりません。


斜めに前方の柵を見ると、きちんと絵が浮かび上がってくる仕掛けです。
塗装の担当者が塗っている様子を見てみたいものです。

作橋から見た引地川

2010-01-07 | 藤沢


河口から4番目の作橋から見た引地川の上流です。
護岸がしっかりとしているので、川よりも用水路のような印象です。
大和市の泉の森公園に源がある全長21.3kmの2級河川ですが、
湘南の砂丘地帯で大水のたびに自由蛇行を繰り返した暴れ川だったようです。
勝手に川の道が変わらないように努力した長い歴史が作り出した景観です。

大雄山最乗寺・石碑に込めた思い

2010-01-06 | あちらこちら


大雄山最乗寺の広大な境内には沢山の石碑が奉納されています。
サンプルを3つ紹介します。
大正4年(1915)に杉苗1万本奉納した石碑です。
この時の苗は今年95年目を迎えたことになります。
すでに500年から1000年の杉がある境内ですが、遠い未来にはこれらの杉が主役になることでしょう。


大正8年に千葉の菅谷さんが永代祈祷料として100円を奉納したという石碑です。
当時の100円の値打ちを考えると、かなりの重みです。
すでに91年が過ぎています。祈りは通じたのでしょうか。


昭和20年(1945)1月に伊豆の三田夫妻と長男が1000円を奉納した石碑です。
太平洋戦争の末期、いよいよ本土決戦を覚悟した時期です。
切羽詰った気持が隠されているような思いを感じました。


大雄山最乗寺・天狗の世界

2010-01-05 | あちらこちら


結界門を潜り、更に進むと御真殿にたどり着きました。
ここには道了尊大薩が祀られています。
道了尊大薩は開山了庵禅師の弟子で創建の貢献者ですが、寺の完成後、
「これからは山中で寺を守り、多くの人を救済する」と言って、
大天狗に姿を変えて飛び去ったと伝わっています。
ここは天狗の世界です。


天狗信仰のおかげで、御真殿の左手には、大小の高下駄が奉納されています。
願いの大小と下駄の大きさはどんな関係にあるのでしょうか。


この大きな高下駄の場所は、格好の記念写真のプラットホームになっていました。
子ども達はVサインで写真を撮られていました。


帰り道の明神門の側にも、大きな高下駄が奉納されていました。
石碑に和合下駄と彫ってあったので、よく見ると下に「横浜和合睦会」とありました。
二つ揃っていないと下駄は役に立たない、と言うことで和合のシンボルなのだそうです。


大雄山最乗寺・本堂参拝

2010-01-04 | あちらこちら


樹齢500~1000年以上の杉並木を登り、寺院の中心部に近づきました。
堂塔の数が30以上もあるので、案内地図をしっかり見てから、瑠璃門を潜りました。


中庭から行く手を見ると、木立を抜けてくる日の光が美しい模様のように見えました。
煙が立ち昇り、そこに斜めに日が射す結果でした。


煙の源は大香炉でした。
参詣者が線香を手向け、煙を身体にかけて健康を祈念する仕組みのようです。


さすがに本堂の前には行列が出来ていました。
大雄山最乗寺は了庵慧明禅師が慶永元年(1394)に開山した曹洞宗の古刹です。
全国に4000以上の末寺があると言われています。



本堂の左手にある開山堂です。
了庵慧明禅師が曽我の里に庵を結んでいると、1羽の大鷲が袈裟をつかんで飛び立ち、
足柄山中の大松に掛けたことから、この地に開山したと伝わっています。



自由に鐘がつけるので鐘楼には長い行列が出来ていました。
鐘をついた人の感想に耳を傾けると、
「上手に撞かないと鐘と撞き棒の距離が近すぎて反動で変な音がする」と言ってました。


南足柄市の重要文化財に指定されている多宝塔です。
文久3年(1863)の建立で方形層上円形木造二重の塔です。


大雄山最乗寺・寅さんの世界

2010-01-03 | あちらこちら


久し振りに大雄山最乗寺に参詣しました。
小田原駅で大雄山線に乗り換える時、改札口の上に大きな小田原提灯があることに気がつきました。
「お猿の駕籠屋」で有名な小田原提灯です。


大雄山駅からバスで10分で入口に着きました。
仁王門から杉林の中の坂道を登って2駅目がバスターミナルになっていました。


参道の脇の杉に注連縄がはってありました。
周りにこれより太い杉が沢山あるのに、何故この杉が選ばれたのかは分かりません。
杉の太さを実感できるようにエキストラに登場願いました。


参道の坂道には、「寅さんの世界」が広がっていました。
杉林のおごそかな道を考えていたので、ちょっと戸惑いましたが、
「寅年」ということでとりあえず納得しました。

元旦の夜

2010-01-02 | 藤沢


午前中に近くの氏神様・賀来神社に初詣を済ませてから年始参りに出掛けました。
暗くなって鵠沼駅に戻ると、賀来神社の入口の初詣提灯が賑やかでした。


もう一度境内に入ってみました。
小さな神社ですから、元旦と言っても夜は静かでした。
社殿の前で参拝者が1人祈っていました。
昼間の混雑時よりもこの時間の方が参拝の効果はあるかも知れません。