Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ファニーゲーム

2008-08-12 | 外国映画(は行)
★★★★☆ 1997年/オーストリア 監督/ミヒャエル・ハネケ
「悪夢を見て、我々は変われるのか」




映画を気分転換や楽しく過ごすためのものと捉えている方は、ご覧にならない方が良いと断言します。

こんなに胃が痛い映画は他にはありません。馬鹿馬鹿しい話ですが、最初から最後までスクリーンの前で神に祈り続けました。この家族を助けてください、と。そもそも、観客を裏切ることを得意とする監督ですから、いくらこちらが期待しても駄目なんだろうなというのは、予測できます。しかし、これだけきっぱり撥ね付けられると、今度は、「これは映画なんだ、現実じゃない」なんて心が叫び出します。すると、そういう心を見透かしたかのように、この馬鹿男どもが、したり顔で「現実」と「虚構」について話し始めるのです。

「虚構は今見ている映画」「虚構は現実と同じくらい現実だ」とね。

この期に及んで、事態を正視できぬ心の弱さにがつんと一撃を食わせる。ハネケの意地悪ぶりには本当に参ります。しかし、本作が観客をただ不快にさせるだけの暴力映画でないことは、この「現実」と「虚構」にまつわるハネケの提示があるからこそでしょう。目の前で行われている暴力をただ眺めているしかできない、我々観客。スクリーンの向こうの出来事ですから、何の手出しもできない。当たり前です。しかし、パウルは、スクリーンに向かってウィンクしたり、話しかけたりして、我々を挑発します。それはまるで「アンタももっとゲームを面白くして欲しいんだろ?」と言わんばかりです。そして、虚構は現実と等しいというテーゼ。

確かにこの映画を見始めた時から、我々は強制的にゲームの参加者にさせられています。しかし、そんなのあんまりではありませんか。観客にだって意思はあります。もしかしたら、「ファニーゲーム」不買運動でもして、DVDを燃やして見せたりすれば、ハネケは満足なのでしょうか?

何度も見る気になれない映画。こんなゲーム一度参加すれば十分でしょう。なのに、ハネケはハリウッドでリメイクしたようです。ハネケは「映画が娯楽のためにあるというのなら、私の映画は存在する意味がない」ときっぱり言っていますし、これまでの作品を見ても、アメリカという国を意識しているのはわかります。よって、ハネケ作品の中でも「暴力」に絞った本作をハリウッドという場所でリメイクする、ということそのものに意図があるのでしょう。リメイクのトレーラーを見ましたが、特にナオミ・ワッツの演技に背筋がざわざわとしました。アメリカの有名人俳優が演じることによって、この突然もたらされる理解不能な暴力は、さらに我々の身近なものに感じられるに違いありません。私は再びこのどうしようもない物語を見るのでしょうか。またゲームに参加してしまうのでしょうか。それは、私もまたパウルのような邪悪さを持っていることの証明にはならないでしょうか。恐ろしい映画です。