Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ダークナイト

2008-08-23 | 外国映画(た行)
★★★★★ 2008年/アメリカ 監督/クリストファー・ノーラン
<TOHOシネマズ梅田にて観賞>
「何かもが凄すぎて絶句」


(エンディングについて触れています)

既に多くの方が傑作と評し、アメコミ映画の最高峰と絶賛し、ジョーカーの提示する「悪」について、様々な方が様々な角度で語られているので、既にもう書くことはないんじゃないか。そんな風に思い、観賞してからずいぶん経つのに何も書けずにいました。圧倒されたとか、考えさせられたとか、実に平凡な言い回ししか浮かばず、どうすればこの世界観が伝えられるのかと筆も進みませんでした。

各俳優陣がすばらしいのはもちろんですが、個人的に興味深かったのは、物語の着地点です。抗うことのできない絶対悪に対してどう立ち向かっていくのか、というのは、911以降ハリウッド映画の共通テーマのように繰り返し語られてきました。ヒーローはいない。復讐してはならない。あまりにも同じテーマが多く、またどの作品も、結局抱える問題に明確な答を出せないジレンマがそのまま表現されてしまった、そんなもどかしさを感じずにはおれません。ところが、「ダークナイト」では、しっかりと結論が出されます。しかも、アメリカ映画としては、驚くべき結論ではないでしょうか。闇の世界に生きる。サクリファイス、自己犠牲と言う精神。ゴッサム・シティが世界、バットマンがアメリカ、ジョーカーがテロリストと考えた場合、バットマンが選んだこの道をアメリカ人は一体どう受け止めただろうかと考えずにはいられません。

非業の死を遂げたヒース・レジャー。ジョーカーを演じたことが、彼の死に何らかの影響を及ぼした、そう考えても全くおかしくはないほど、狂気が宿っていました。舌なめずりする仕草や独特のアクセントを加えた喋り方。彼がいかに自ら創意工夫して、己の中から絞り出すようにこの役を作り上げたのかが、実に良くわかります。病院を爆破するシーンで、スイッチをまるでおもちゃのように扱う。あのコミカルさが却って生々しく、背筋が凍りました。そして、主演のクリスチャン・ベール。私にはヒースの引き立て役とは思えなかった。善が悪を呼び、悪が善を呼ぶ。そんな、世界観が構築できたのも、彼いればこそだったのではないでしょうか。そして、マイケル・ケイン、モーガン・フリーマン、ゲイリー・オールドマン。前回に引き続き、脇役のすばらしさは目を見張ります。こんなに脇が光っている作品って、ちょっと思い出せないですね。

善から一転して悪へと転化する「トゥー・フェイス」。その成り立ちは原作とは違うようですが、彼の存在が「ジョーカー(悪)VSバットマン(善)」という単純な対立構造からさらに一歩深い世界を作り出しているのは、言うまでもありません。アーロン・エッカート扮するデントが、自らを犠牲にして高らかに正義の使者ごとく立ち上がったにも関わらず、愛する者の死によって「社会のため」に生きることよりも、「個人の私怨」に生きることを選ぶ。このデントの生き様にもまた様々なメタファーが隠されています。

とにかく善悪の概念が揺れ動き、混沌とする様を描き出す脚本が秀逸。登場人物の配置の仕方、バランスの取り具合、何かもパーフェクトではないでしょうか。バットモービルなどのハイテク装備や基地内の様子は、近未来的ではありますが、色彩も少なく、実に無機質な作りで、何と「謙虚」だろうと思わずにはいられません。一方、爆破シーンやカーチェイスの場面は、徹底的に迫力を追求し、とめどない破壊をイメージさせます。また、ハンス・ジマーの音楽は、同じく担当した「ワールド・エンド」のようなわかりやすい主旋律を持ったものではなく、どちらかと言うと重低音のBGMに徹しているかのようで、これが作品のイメージとどんぴしゃり合っています。全てを統括した、監督クリストファー・ノーランの才能にただただ驚くばかりです。総合芸術の極みと呼ぶべき作品ではないでしょうか。