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宇野峠は、奈良県五條市の国道24号線・三在の交差点から奈良県吉野郡大淀町への国道370号線上にある。
なぜ、この峠へ行ったのか?
川上村のファンになって、「 日本林業の父 」 「 吉野林業の中興の祖 」 と言われる土倉庄三郎翁のことをいろいろ調べてたら、この峠の整備も土倉翁が手掛けていた、そしてその顕彰碑が峠にあるらしい 、というワケで宇野峠へ行ってきました。
五條市三在交差点の案内板、大淀町方面へ向かう
峠頂上のすぐ手前に小さな案内板がある
↓ の写真2枚
顕彰碑は、擁壁・ネットフェンスの後ろ=山側にあり、道路からはほとんど見えない
案内板も小さなもので、気を付けて見てないと見落としてしまう。 ワタシは酷暑の中を3往復してやっと見つけました。
顕彰碑、 題は 「 宇野嶺開〇碑 」 〇 は苔と経年劣化で判読不能
文章はひらがなが全くない、何だか 「 漢文 」 のようでワタクシには読めない、残念
顕彰碑だから褒めたたえているのだろう
石碑の側面に明治24年4月1日と刻まれている
《 奈良の近代化をささえた人々 土倉庄三郎 》
庄三郎は造林法だけでなく、インフラ整備に目を向けていました。 林業の要は運搬にありとしてこの点を熟知していました。 明治3年 (1870年)に 政府より陸海路御用掛に任命され、文字どおり、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。 明治6年( 1873年 ) から8年にかけて、吉野川の水路の開削として、川上村北和田から吉野宮瀧までの延べ32キロについて、浚渫工事や川幅の拡幅工事を行いました。
また、道路では、明治12年( 1879年 ) から現在の国道169号の吉野宮滝から川上村を横断して上北山村に通じる東熊野街道の整備を、明治17年( 1884年 ) から吉野宮滝から五條市へと通じる道路の整備を行いました。 五條市の宇野峠には建設碑が建立されています。
更に、三重県北牟婁郡の大杉谷の開発にかかわり、東熊野街道から三重県船津までの私道( 林道 ) を開設し、分岐したルートとして大台ケ原までのルートも開設しました。
東熊野街道や宇野峠の工事費用については 「 青山20分の1 」 といって、山林評価の20分の1を所有者から出資させて整備を行いました。このように庄三郎はインフラ整備を積極的に行い林業のみならず地域経済の発展にも大きく貢献しました。
・・・ 「 奈良県歴史文化資源データベース いかす・なら 」 より
今日現在の宇野峠、西側より撮影
明治17年から136年、往時の面影は全くない。
顕彰碑は、現在の広い道路にする際、擁壁の上の山の中へ移されたのだろう、道路沿いのもう少しわかりやすい場所に置くことはできなかったのだろうか?
▽ 宇野峠近くの高台より
後方は金剛葛城山系
上の写真の真ん中あたりをズームで大きく撮れば、山麓線の赤い橋が見える
左が金剛山、右の山が葛城山と思う、 手前には京奈和道が走る
ズームで大きく撮れば、京奈和道の五條北ICのようだ
宇野峠は、奈良県五條市の国道24号線・三在の交差点から奈良県吉野郡大淀町への国道370号線上にある。
なぜ、この峠へ行ったのか?
川上村のファンになって、「 日本林業の父 」 「 吉野林業の中興の祖 」 と言われる土倉庄三郎翁のことをいろいろ調べてたら、この峠の整備も土倉翁が手掛けていた、そしてその顕彰碑が峠にあるらしい 、というワケで宇野峠へ行ってきました。
五條市三在交差点の案内板、大淀町方面へ向かう
峠頂上のすぐ手前に小さな案内板がある
↓ の写真2枚
顕彰碑は、擁壁・ネットフェンスの後ろ=山側にあり、道路からはほとんど見えない
案内板も小さなもので、気を付けて見てないと見落としてしまう。 ワタシは酷暑の中を3往復してやっと見つけました。
顕彰碑、 題は 「 宇野嶺開〇碑 」 〇 は苔と経年劣化で判読不能
文章はひらがなが全くない、何だか 「 漢文 」 のようでワタクシには読めない、残念
顕彰碑だから褒めたたえているのだろう
石碑の側面に明治24年4月1日と刻まれている
《 奈良の近代化をささえた人々 土倉庄三郎 》
庄三郎は造林法だけでなく、インフラ整備に目を向けていました。 林業の要は運搬にありとしてこの点を熟知していました。 明治3年 (1870年)に 政府より陸海路御用掛に任命され、文字どおり、陸と川と海の交通路の整備を担当しました。 明治6年( 1873年 ) から8年にかけて、吉野川の水路の開削として、川上村北和田から吉野宮瀧までの延べ32キロについて、浚渫工事や川幅の拡幅工事を行いました。
また、道路では、明治12年( 1879年 ) から現在の国道169号の吉野宮滝から川上村を横断して上北山村に通じる東熊野街道の整備を、明治17年( 1884年 ) から吉野宮滝から五條市へと通じる道路の整備を行いました。 五條市の宇野峠には建設碑が建立されています。
更に、三重県北牟婁郡の大杉谷の開発にかかわり、東熊野街道から三重県船津までの私道( 林道 ) を開設し、分岐したルートとして大台ケ原までのルートも開設しました。
東熊野街道や宇野峠の工事費用については 「 青山20分の1 」 といって、山林評価の20分の1を所有者から出資させて整備を行いました。このように庄三郎はインフラ整備を積極的に行い林業のみならず地域経済の発展にも大きく貢献しました。
・・・ 「 奈良県歴史文化資源データベース いかす・なら 」 より
今日現在の宇野峠、西側より撮影
明治17年から136年、往時の面影は全くない。
顕彰碑は、現在の広い道路にする際、擁壁の上の山の中へ移されたのだろう、道路沿いのもう少しわかりやすい場所に置くことはできなかったのだろうか?
▽ 宇野峠近くの高台より
後方は金剛葛城山系
上の写真の真ん中あたりをズームで大きく撮れば、山麓線の赤い橋が見える
左が金剛山、右の山が葛城山と思う、 手前には京奈和道が走る
ズームで大きく撮れば、京奈和道の五條北ICのようだ
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