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巨大ブラックホールの衝突が新宇宙を形成⇒循環宇宙論、有機物質から人間への進化メカニズム(循環論理の評価)⇒戦略的進化論

オートバイの青春

2011年05月22日 12時20分09秒 | 思考空間

 学生時代、失恋し落ち込んでいたが、幸い時間は有ったのでアルバイトで安い中古オートバイを購入し、走り回りましたね。もう、40年ぐらい前の話ですが。最初は、ホンダのCS90。単気筒の90CCバイクで町や野原や国道やあらゆるところを走り回った。気晴らしや憂さ晴らしや、兎に角走った。

 ホンダのオートバイはよく故障しましたね。スパークプラグをレンチで抜いては、ワイヤブラシで磨いていたし、電池は常に蒸留水を入れ、電圧が下がると充電器で充電した。点火のタイミングも調整していた。それでも、CS90は単気筒なので、エンジンのバランスの問題が無く、比較的故障が少なかった。

 あの頃、自動2輪車の免許は、ほぼ全員が無免許で練習し、自信ができたら免許センターに行くと言う具合。緩い時代だったのかな。ウィンカーのつく前で、手で合図してました。

 警察には徹底的に狙われた。自分たちが苦労しているのに、遊んでいるように見える学生が許せなかったんだろうな。制限速度プラス10km/hで走っているのに、白バイに停められ切符を切られた。違反していないじゃないかと言うと、交差点の曲がり方が速度を落とさず生意気だったとの返事。滅茶苦茶。

 2台目はホンダのCP77だったかな。2気筒305CCの中古オートバイで、知人の自転車屋から購入した。キックは右足で前に蹴る珍しいオートバイだったが、何しろ、初めての本格的バイクでうれしかった。エンジンは独特の柔らかい良い音だった。有頂天だったが、車検を出した後に盗まれた。今でも、あのオートバイ屋(購入先ではない)が怪しいと思っている。

 その後ホンダドリーム(250CC)に乗った。大きな古めかしい、バイクだった。CP77とはえらい違いで、金が無かったので仕方なかった。風を受けると息ができなくなるし、雨は痛いので大きな風防をつけた。カーブでちょっと倒すと、ステップをこすった。

 親しかった友人(K)が単気筒500CCのバイクを買った。元白バイだったようだ。エンジンが灼熱し、夜は赤い提灯のようだった。ブレーキとシフトの位置が逆だったので、とっさのときは誤操作してしまった。

 友人(F)がCB450(タンクが横に張っている)の中古を買ってもらい、私はさらに古いドンガメタイプのCB450を購入した。友人のバイクは、排気音が「ぱら ぱら ぱら」と軽快。私のCB450は曇った音でうるさかった。振動も大きかった。それでも何しろ、450CC。スロットルを開くと、スポーツカーでさえ、全く問題にしなかった。

 オートバイでは、交差点毎に、シグナルグランプリをやった。信号が緑になると、一斉にフルスロットルで飛び出す。当然、排気量の大きいバイクが有利だが、ある程度の排気量になると、結構度胸を試されるし、技量も、ものをいう。

 別の友人は卒業を記念して、ホンダの125CC(ベンリーだったか)で日本一周を果たした。私も誘われたが行かなかった。見送る時、事故を起こして欲しくなかったので、逆に「事故を起こして来いよ」と言ったら、彼が帰ってきた時、随分、文句を言われた。無事には帰ってきたが、相当頭に来たらしい。

 オートバイの概念が変わったのはホンダの750(ナナハン)が出現してから。4気筒で、車のようなエンジン。アイドリングではズズズズとうなる。スロットルをいっぱいに吹かすと、バアアンという排気音と共に、矢のような加速を見せる。車に追いつき、ドライバーがバックミラーを見た時には既に、追い抜いて前に出ているという具合だ。知人のバイクを借りて試乗したがすごかった。

 学生の最後は東京だったが、ここでは友人からカワサキのW3(2気筒、650CC)を購入した。W1スペシャル(メグロ?)より新しいモデルで、W1スペシャルが左ブレーキ、右チェンジだったが、W3ではまともな位置(右ブレーキ、左チェンジ)になるようなメカニズムにしてあった。ドッドッドとはらわたに響く低音。古いエンジンだがそれでも速かった。

 実は西武池袋線の中村橋のアパートに帰るのに、満員電車で揺られて2回も乗り換えるに参っていた。駅から更に、1km近く歩いた畑の中にアパートが有った。東京では、オートバイが最も速く便利、多分今でも。朝は、渋滞道路を20~30km/hで車列の右側を抜ける。帰りは、一転して、3車線ぐらいの解放された道路を高速で走り抜ける。警察も、ただ見送るだけ。

 W3ぐらいになると、車重は200kgを越し、きちんとスタンドを立てるには力と要領が必要だった。僅かな傾斜でも、エンジンを止めると動かなかった。恥ずかしかったのは、信号待ち、足が十分地面につかない道路で、傾きかけたバイクが止まらずそのまま転倒してしまったこと。

 当時は都内にアメ車がたくさん走っていた。アメ車は図体が大きいし、大きい割には速い。ゼロ4(ストップ状態から400m到達までの時間)が13.8秒のW3だったから、スタート時は圧倒的に強いが、うっかりすると追いつかれてしまう。エンジンブレーキは多用した。スピードを落とす際に、クラッチを十分抜かず、いきなりギアダウンする。よくチェーンが切れなかった。

 印象に残っているのは、2台の車を抜いた時のこと。2台の車がスピード競争している。私は軽々と2台に追いつと、その真ん中をフルスロットルで、突き抜けるように追い抜いた。

 アラビアのロレンスが、オートバイで走っている時に、歩行者にぶつかりそうそうになったときは、オートバイを自ら倒して歩行者を救うとの趣旨を話したそうだ。男の優しさでもあり浪漫でもあろう。日本の道路では、命を落としかねない。私も何度か転んだが、よく無事だったと思う。

 結婚した後、車に乗り始めてからは、家内の強い要望もあり、オートバイはやめた。長い、オートバイ運転で、その癖がなかなか抜けず、長い間、苦労した。幅の感覚が無く、何度か左をこすった。どこでも簡単に追い抜けると考えるが、車はそうはいかない。進む感覚は優れているが、バックに対する注意が足りず、何度も駐車場ではあててしまった。

 オートバイという移動マシンを得て、私は体全体に風を受けながら、ただただ走った。景色や環境を全て体で感覚的に受けとめた。自由で、解放された、移動する世界を満喫できた。それが何だったかと問われても、答えはない。加速し、高速で走り抜く自分がいただけ。