【考察・20.06.24】:いったい何者? 大阪府知事・吉村洋文という男 ■小池都知事も完全に喰われた…
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【考察・20.06.24】:いったい何者? 大阪府知事・吉村洋文という男 ■小池都知事も完全に喰われた…
高校時代はラグビー部。23歳で司法試験に合格し、武富士の顧問弁護士としてメディア相手に訴訟を連発。やしきたかじんに橋下徹を紹介されて運命が変わった。色白の男前ながら、次々と独自策を実行し、政府や大臣に喰ってかかる。日本の政治を動かす本物か、それともコロナの収束とともに消えるのか。
◆神童と呼ばれて
「吉村(洋文)さんに最初にお会いしたのは、まだ大阪市長になられる前でした。橋下(徹)さんとご一緒したときに、同席されていたと記憶しています。『スマートな青年』という印象でした。
体格も細く、正直なところ、その後、市長や知事として大阪を引っ張っていくことになるとは想像もつきませんでした。いまや吉村さんがいるから大阪府民になりたいという人がいるぐらい、誇りと覚悟を持った立派なリーダーになっているのですから、驚くばかりです」
そう語るのは、大阪府の吉村洋文知事(44歳)と親交がある、建築家の安藤忠雄氏だ。
吉村氏の株が急上昇している。新型コロナ流行が本格化して以降、連日ワイドショーなどに出演。休業要請に応じないパチンコ店の名前を全国に先駆けて公表したり、休業要請の段階的解除について「大阪モデル」という独自規準を打ち出すなど、是非はともかく、その大胆な姿勢と実行力が話題を呼んだ。
日経新聞が5月8〜10日に行った世論調査では、新型コロナ感染者が多い9都道府県のうち、「最も評価する知事」という項目で全体の52%の票を集め、トップに躍り出た。2位の小池百合子都知事が19%だから、トリプルスコアに近い。
吉村氏は'75年、大阪府河内長野市に生まれた。実家は、ごくごく一般的な「中流家庭」だったと、近隣住民は口を揃える。
「お父さんは電気関係の会社の設計技師で、お母さんはパートをされていました。同年代の子たちに彼のことを聞くと『頭が良くて、ちょっと生意気だった』と言っていましたね」(近隣住民)
吉村氏は実家からほど近い、千代田小学校、千代田中学校という公立校に通った。中学時代の同級生が話す。
「僕たちは『よっしん』と呼んでいました。彼はとにかく勉強ができました。中学校は一学年で7クラスあったんですが、成績はほぼずっと学年で1位だったと思います。陸上部に入っていて、スポーツも万能でしたし、女の子からもモテていましたよ」
吉村氏は学区のトップ校だった大阪府立生野高校に進学する。旧制中学の流れを汲み、関西の政官財界の要人を多数輩出してきた名門校だ。だが、ここで吉村氏は初めての挫折を味わった。高校時代の同級生が語る。
「ラグビー部に所属していたようですが、吉村君に強い印象がないのです。'14年に彼が国政選挙に出たときも、同級生たちと『ああ、確かそんな奴がおったな』と話したくらいです」
高校時代の同級生たちに話を聞くと、皆一様に「覚えていない」「印象が薄い」と話す。前出の中学時代の同級生が語る。
「彼が政治家になってから、時々高校時代の話が報じられると、みんなが『おとなしい』『目立たない』と言っているので驚きました。地元では神童でしたが、生野高校では彼ぐらいの秀才はいくらでもいたのだと思います。地元の同級生たちで『生野(高校)に行って埋没したんかな』と話していました」
高校を卒業後、'94年4月、吉村氏は同級生の多くが進学する京大や阪大ではなく、九州大学法学部に進学する。大阪から九大への進学は珍しい。
吉村氏は後に、橋下氏、松井一郎氏との鼎談のなかで、自身の大学受験について「センター試験で失敗して、なんとか現役で行けるところを探した」と語っている。
◆下積み弁護士の苦悩
吉村氏にとって、高校時代、そして大学進学は不本意なものだったのかもしれない。そんな彼が打ち込んだのは、やはり「勉強」だった。大学生活を謳歌する同級生たちを尻目に、大学2年生から旧司法試験の勉強に打ち込むようになった。そして、大学を卒業した'98年の10月、23歳の若さで旧司法試験に一発合格する。
司法修習を終えた吉村氏は東京にある熊谷綜合法律事務所に所属した。同事務所の代表・熊谷信太郎弁護士が話す。
「仕事ぶりは極めて真面目でしたよ。毎日夜の11時か12時まで残り、土日もよく出勤していたようです。当時、うちの事務所は武富士から名誉毀損訴訟を頼まれていたので、彼にも担当に入ってもらいました」
2000年代初頭、武富士は反社会的な取り立てや業務の違法性などを指摘するメディアに対し、訴訟を連発。言論萎縮を目的とした「スラップ訴訟」を次々と起こしていた。その際の武富士側の弁護人の一人が吉村氏だったのである。武富士から訴訟を起こされた一人である、ジャーナリストの寺澤有氏が語る。
「武富士から、私が執筆した記事が名誉毀損に当たるとして、2億円の損害賠償を求める訴訟を起こされました。吉村氏は武富士側の弁護士の中でも、一番の若手でしたね。彼を見たとき『こんな若さでスラップ訴訟に関わって、経歴に傷がつくんじゃないか』と、相手方ながら思ったことを覚えています。結局、裁判中、特に彼が発言することはありませんでした」
◆最大のチャンスがきた
'05年に熊谷綜合法律事務所から独立し、司法修習の同期などと法律事務所を立ち上げる。
司法修習生時代に知り合った元CAの妻と結婚し、双子の娘も生まれた。この時点まで、吉村氏に政治の世界への思いがあったとは考えにくい。運命が変わったのは、ある人物との出会いだった。
「吉村氏は、知人から紹介されて、ある番組制作会社の顧問弁護士をやっていました。そこの会社がタレントのやしきたかじんさんの番組を制作していたことで、たかじんさんと知り合ったんです。たかじんさんから気に入られ、『あんたは政治をやるべきや』と言われたそうです。それで、たかじんさんから橋下徹さんに引き合わされたと聞いています」(吉村氏を知る弁護士)
橋下氏も、府立北野高校時代はラガーマンとしてならした。二人は「弁護士」と「ラグビー」という共通点があったのだ。吉村氏は弁護士に成り立てでスラップ訴訟に関わり、「このままでいいのか」という思いを抱いていたのかもしれない。
自身の能力への自負と、生来のプライドの高さも、胸の中に残っていたのだろう。そうして、吉村氏は'11年に大阪維新の会の公認を受け、大阪市議選に出馬。初当選を果たす。'14年には大阪4区から衆院選に出馬し、国会議員に転じた。維新の会の議員が語る。
「当時の吉村氏は維新の討論会でも目立つタイプではなく、怒られはしないけど、存在感もないという印象でしたね。委員会などでも、いつも下を向いてボソボソと喋っていた。先輩に上手くゴマをするような如才のなさがあるわけでもない。
ただ、『超』がつくほどの真面目さですし、本当によく勉強をしている。そのあたりが橋下さんは気に入っていたんじゃないでしょうか。彼が'14年に衆院選に出たのは、それまで大阪4区にいた維新の代議士があまり有能ではなかったこともあり、橋下さんの肝煎りで吉村氏に交代させたんです」
吉村氏と当選同期で、日本維新の会の衆議院支部長(東大阪市)の岩谷良平氏が語る。
「維新の都構想推進本部戦略チームのリーダーが吉村さんでした。かなりの激務でしたが、懸命に仕事をしていましたね。ある日、深夜に吉村さんからメールが届いていた。開いてみると、都構想のロゴのデザインについてで、『A案とB案のどちらがいいか、深夜12時までに意見をください』とあった。
慌ててメールを送りましたよ(笑)。本当に24時間体制に近い形で仕事をしていたんじゃないかと思います」
懸命な勉強と、真面目さだけでやってきた男に最大のチャンスが転がり込んできたのは、'15年のこと。「大阪都構想」が住民投票で否決され、橋下氏が大阪市長を退くことになった。それまで吹いていた追い風がピタリと止んだ維新の会にとって、イメージを刷新する新たな顔が必要だった。そこで、吉村氏に白羽の矢が立ったのである。
維新の会の幹部が話す。
「都構想が潰れて、維新の会にとっては一番厳しい時期でした。そんなときに、橋下さんと松井さんが吉村を呼び出した。橋下さんが吉村に『市長選に出てくれないか』と聞いた。吉村は5秒間ほど、じっと黙り込んだそうです。しかし、すぐに『わかりました』と答えたのです」
下馬評は劣勢だったが、橋下氏の応援を受け、見事、大阪市長に就いた。その後も橋下氏とは密接な付き合いを続け、プライベートでもバカンスに行くようになった。そうして橋下氏の考えや手法を自分のものにしていったのだ。
◆腹芸は苦手
'19年3月、大阪都構想の住民投票をめぐる公明党との対立から、松井府知事との入れ替え選に打って出た。そのクロス選に向けた維新の府政・市政報告会で、吉村氏はこう言って公明党の対応を批判した。
「一言で言うと裏切られた、騙されたということなんですよ!」
その姿は、明快な「敵」を設定し、断定口調で訴えかける、「師匠」橋下氏のスタイルそのものだった。そうして、同年4月、大阪府知事選に勝利した。前出・維新の会議員が語る。
「彼の強みは、あの年で、市議、衆院議員、市長、府知事という様々なキャリアを積んでいるところ。他にそんな政治家はいません。維新の会は今年11月に大阪都構想の住民投票を再び行おうとしています。仮に可決された場合、史上初の『大阪都知事』に彼が就くのは間違いないでしょう」
しかし、そんな彼に厳しい視線を投げかける政界関係者は少なくない。
「吉村が橋下さんの政治手法を真似ているとよく言われますが、橋下さんはああ見えて、表と裏をキッチリ使い分けていた。橋下さんは市長や知事時代、表では過激にやり合いながら、他党の議員などと会食を設け、そこでは相手を徹底的に楽しませるという芸があった。
一方で吉村は会食にもあまり顔を出しませんし、出たとしても一軒目で必ず帰ってしまう。人の心の掴み方が、橋下さんには到底及ばないと思います」(前出・維新の会幹部)
「師匠」のパフォーマンスだけを真似ても、いずれ限界を迎えるのは間違いない。だが、まだ44歳の若さだ。コロナの流行とともに咲き、収束とともに人気も萎んでいくのか。真価が問われるのはこれからだ。
※:『週刊現代』2020年5月23・30日号より
元稿:現代ビジネス 主要ニュース メディアと教養 【担当:週刊現代編集部】 2020年06月24日 07:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。