【社説①】:年の終わりに考える 和解の記憶増やしたい
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説①】:年の終わりに考える 和解の記憶増やしたい
皇居のお堀の脇に、銀色をした高い建物があります。「昭和館」です。国立の施設で、戦中、戦後の庶民生活を伝えています。
小学生の社会科見学で選ばれる定番コースだそうです。確かに、首都圏からたくさんの小学生の団体が来ていました。
人気の秘密は、なんと言っても昭和時代の服や生活用品の実物が展示されていることです。
最も大きい展示物は「旋盤」でしょう。石川県の軍需工場に設置されていたものです。高速で回転する加工物を削り、部品に仕上げる機械です。
◆海外からの若者たち
戦争末期には人手が足りなくなったため、勤労動員の学生たちが旋盤を動かしていました。
昭和館にはどこにも説明はありませんが、実は動員、徴用された人の中には、日本本土以外から来た若者もいたのです。
日本が統治していた朝鮮半島や、日本と戦争状態にあった中国から来た人たちが、工場のほか、炭鉱や製鉄所などで長時間、過酷な労働に従事させられました。
「もし、彼らのことが昭和館のような公共の場所で紹介されていたら、彼らも心が安らぎ、問題はもつれなかったはずです」
戦時中の強制動員を研究している専門家の一人が、そう話していたのが耳に残っています。
問題とは、元徴用工の人たちが起こした一連の訴訟のことです。一九九〇年代以来、日本と韓国で長い裁判が続きました。その結果、二〇一八年十月になって韓国の大法院(最高裁)は、日本企業に賠償を支払うよう命じる確定判決を出したのです。
その後、対立は経済、安全保障の分野にも広がりました。二十四日に一年三カ月ぶりの日韓首脳会談が中国で実現し、関係改善の動きがようやく見えてきました。
◆ぶつかる国民の物語
ただ、根本的な原因は、日本と韓国の歴史認識の食い違いです。歴史とはそもそも、その国の事情に合わせた「国民の物語」として記憶されるものです。一つの歴史が、国によって違った内容で記憶されるのです。歴史学を専門とする、米コロンビア大学のキャロル・グラック教授の指摘です。
日本と中国、韓国の間では摩擦が起きやすい構造があります。
「過去の戦争についてのそれぞれの国民の物語がぶつかり合い、現在において政治的かつ感情的な敵対心が生まれている」(『戦争の記憶』講談社現代新書)と、教授は説明しています。
一方日本側は、一九六五年の日韓国交正常化の際に結ばれた請求権協定で「完全かつ最終的に決着した」とされていることから、謝罪にも賠償にも応じていません。
戦時中、外国人への強制労働を行ったドイツは、各地にあった関連の施設を保存しています。
例えば首都ベルリン郊外にあるザクセンハウゼン強制収容所。今は追悼博物館となっています。四五年までに数十万人が、強制労働させられたそうです。
今年の夏、ベルリンから電車で四十分ほどかけて、現地に行ってみました。
欧州各地からの観光客で大変な人出でした。さらに地元の高校生たちも、バスで訪れていました。展示は写真や記録文書などを網羅した、詳細なものでした。
◆隣国の価値を再認識
強制労働をさせたドイツの企業は基金を通して、多くの被害者への補償を行いました。日本とは単純に比較できないとはいえ、歴史を語り伝えようというドイツの人たちの強い意志を感じました。
逆に、自分たちの記憶や物語をぶつけ合い、「記憶の政治」を進めれば何が起きるのでしょうか。今年一年、われわれはそれを、実際に体験しました。
メディアに刺激的な記事が増え、交流が減り、経済にも影響が出ました。
日本と韓国は隣国として多方面で密接につながっています。このことを、改めて認識する結果になったともいえるでしょう。
歴史の記憶を全面的に書き換えるには大変な労力が必要ですが、新たな歴史を加え、「共通の記憶」に変えることはできると、グラック教授は言います。その例はハワイの真珠湾です。
二〇一六年十二月、日米の首脳が、そろって、この地を訪問しました。初めてのことでした。
そして、太平洋戦争の開戦につながった一九四一年の真珠湾攻撃を振り返りながら、犠牲者を慰霊したのです。
安倍晋三首相は、この時「日本は平和国家としての歩みを貫く」と重ねて誓っています。
こうして「戦争の記憶」は、新しい「和解の記憶」に生まれ変わったのです。
日韓の間でも、記憶を新たにする努力を始めたい。きっとできるはずです。
元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2019年12月29日 06:10:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。