今日の「朝日」の社説と37面を読んで、また言わねばならない!
37面に「沖縄・福島 どう寄り添う」「那覇でマスコミ倫理懇全国大会」「地元紙提起に『難しい』の声」「脱原発の論調、46紙中28紙」という題で記事が書かれている。
まず、「東日本大震災を取り上げた分科会では、震災と原発事故の新聞・テレビ報道の傾向、特徴について、マスコミ懇から調査を依頼された専修大の藤森研教授(ジャーナリズム論)が発表した」とあるが、「原子力と日米安保」についての討議は、見えてこない。
「安全神話にとらわれ、過酷事故が起きるとは報道側も思っていなかったのを反省しなければいけない」(読売東京本社井川陽次郎論説委員)、「メディアは政府や東京電力の情報を伝えはしたが、事故を想定した別のチャンネルづくりを怠っていたため事故直後は独自情報がなく、大本営発表批判につながった」(東京新聞大場司社会部長)という記事があるが、この言葉を、そのまま日米安保に連動してみたらいい。
日米安保の安全神話・抑止力論神話、日本の繁栄を日米安保が築いてきたという繁栄神話に囚われている思考回路から、知恵も工夫も出てこないだろう。原子力エネルギー安全神話論にもとづく繁栄論は、フクシマで、破綻したことを自覚すべきだ。それらの繁栄論にしがみつく思考回路をこそ、今克服しなければならない。
こうした神話論は、オスプレイ配備に係わっても、全く同じ思考回路だ。以下、32面の記事を見てみよう。
1日に沖縄の米軍普天間飛行場へ配備された新型輸送機オスプレイ。「沖縄に依存する日本の安全保障を問う」をテーマにした分科会では、普天間の移設やオスプレイの配備などを巡って、地元メディアから「全国メディアの報道姿勢には違和感がある」と疑問が投げかけられた。
琉球新報の普久原均・編集局次長兼報道本部長は、2005年の在日米軍の再編協議で北海道や九州が基地移転の候補に挙がりながら、ほとんど報じられなかったと指摘。鳩山由紀夫元首相が「最低でも県外」と発言した際も、米国側の反応を中心にした論調が多く、「基地を沖縄に置き続けた方がいいという、日本社会全体の考え方が無意識のうちに働いているように感じた」と振り返つた。
沖縄タイムスの崎浜秀光・論説副委員長は、オスプレイの安全性について、沖縄に配備された後は「沖縄の問題だから、と関心がしぼんでしまうのではないか」と懸念を示した。 また崎浜氏は、取材の対象が、地元メディアは基地を抱える県民が中心であるのに対し、全国メディアは政治家や官僚、海外にも及ぶことに触れ、そのために「高みから日米安保の現場を見下ろしているような印象を受ける」と訴えた。
こうした問題提起に対して全国メディアの側からは、基地問題に向き合うことの難しさについての声が相次いだ。
日本経済新聞の秋田浩之・編集委員兼論説委員は、普天間飛行場の辺野古移設を支持している背景について「最悪なのは普天間の固定化を招くこと。辺野古への移設が満点ではないが、計画をつぶせとは言えない」と語った。朝日新聞の国分高史・論説委員は「社説は20入以上の論説委員が常に侃々諤々の議論して作っている。沖縄の置かれだ状況を決して軽視しているわけではない」と説明した。
一方、琉球新報と提携してきた高知新聞の中平雅彦・編集局長は、基地問題が政争の具になっていると指摘。「基地問題は一地方の問題ではなく、日本の民主主義の成熟を映す鏡なのだと思う」と話した。(引用ここまで)
どうだろうか。
「基地を沖縄に置き続けた方がいいという、日本社会全体の考え方が無意識のうちに働いているように感じた」「高みから日米安保の現場を見下ろしているような印象を受ける」という「問題提起に対して全国メディアの側からは、基地問題に向き合うことの難しさについての声が相次いだ」「最悪なのは普天間の固定化を招くこと。辺野古への移設が満点ではないが、計画をつぶせとは言えない」「常に侃々諤々の議論して作っている。沖縄の置かれだ状況を決して軽視しているわけではない」という思考回路からは、原子力ムラがカネをばら撒いて原発立地地域を麻薬患者のようにガンジガラメにしていったように、基地ムラが基地周辺自治体を基地麻薬から逃れられないようにしていることが判る。マスコミも含めてだ。全く同じ構造だ。
このことは「社説」にも言える。
「首相は沖縄の現実を直視しなければならない」「これを侮ることは、県民生活や日米同盟の将来を考えても、危険である」と述べていることだ。
「朝日」の「社説」は「県民生活や日米同盟の将来を考え」ると何が「危険」なのか!ここに日米軍事同盟安全神話という思考回路に凝り固まっている「社説」の根幹がある。
日本の全国紙をはじめマスメディア・マスコミの日米軍事同盟安全神話を打ち破らないかぎり、日本国民の安全・安心などはありえないことを再度強調しておこう。「可能な限り」などというゴマカシはもはや通用しないことを自覚すべきだろう。
オスプレイ配備―沖縄の怒りを侮るな(10月2日)
米軍の新型輸送機オスプレイの第1陣が沖縄県の普天間飛行場に着陸し、本格運用に向けた準備が始まった。 野田首相は、「安全性は十分確認できた」との談話を出したが、沖縄県民は不安と反発を強めている。 政府と地元との認識の差はあまりに大きい。これを侮ることは、県民生活や日米同盟の将来を考えても、危険である。 普天間飛行場の主な三つのゲートでは、先週から市民団体の抗議行動が続いている。基地機能をまひさせようと、住民たちは車をバリケード代わりにゲートを封鎖し、県警が強制排除する事態になっている。 ゲート前の抗議集会に連日、翁長雄志(おながたけし)那覇市長ら市町村長たちが、党派を超えて駆けつけている。きのうは仲井真弘多(なかいまひろかず)知事も飛行場わきの宜野湾市役所の屋上から、オスプレイの飛来を見守った。 「県民の不安が払拭(ふっしょく)されないまま強行する手法は、どう考えてもおかしい。自分の頭に落ちてくる可能性があるものを、だれがわかりましたと言えますか」と知事は憤る。 政府はオスプレイの運用にあたり、可能な限り人口密集地の上を飛ばないようにすることなどで米側と合意した。 だが、沖縄県民はこれまでの米軍の飛行や事故の経験から、それは守られない約束であることを痛いほど知っている。 沖縄県民が怒るのは、新型機の安全性の問題だけからではない。米軍基地を沖縄に押し込める構造。それがいつまでたっても改まらない。これらを差別的だと感じていた不満が、一気に噴き出したのだ。 だからこそ、先月の県民大会には、お年寄りから子供まで、組織されない人たちもふくめて数万人もが集まった。参加者の広がりや、抗議にこめられた思いの強さは、これまでとは明らかに質が異なる。 野田首相はきのうの記者会見で、「普天間飛行場の一日も早い移設・返還をはじめ、沖縄の負担軽減や振興にいっそう力を入れていく」と述べた。 首相がこれらを実行するのは当然だが、名護市辺野古への移設を進めようというのなら、見当違いだ。 政府内には、いずれ仲井真知事が辺野古移設を決断してくれるとの期待がある。だが、それは甘いというほかない。 いまや辺野古があり得ないことは、県民の総意に近い。そこを見誤っては普天間返還は遠のくばかりだ。首相は沖縄の現実を直視しなければならない。(引用ここまで)
そういう点で、内田樹氏の問題提起・指摘は示唆に富んでいるが、最後に書かれた以下の部分については、国民的議論を巻き起こしていく必要があるだろう。「国運の回復機会」を到来させるためには日米軍事同盟を廃棄して、日本国憲法をあらゆる場面で使う道を模索することだろう。
アメリカ抜きの日本外交はありうるか?内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/2012/09/02_1232.php
…いつか日米同盟基軸が「あまり適切な選択肢でない」時点に私たちは遭遇する。それは避けがたい。その日が決して来ないことを切望する人たちの気持ちは理解できる。だが、高い確率で、「起きない方がいいこと」は起きる。「起きない方がいい」と必死に願うということ自体、「起きる可能性の切迫」を無意識が感知しているからである。そのときには、生き延びるために「それとは違う選択」をしなければならない。いつその日が来るのか。どういう条件が整えば、そう判断できるのか。そのときに私たちが取り得るオルタナティブにはどのようなものがありうるのか。それが必要になった時点で「ただちに実現可能な代替選択肢」であるためには今からどのような「備え」をしておく必要があるのか。そのことを今から考えなければいけない。だが、「アメリカ抜きの日本外交」について知的資源を投じる用意のある人間は、現代日本にはほとんど存在しない。そんなところに資源を投じても、誰も評価しないし、誰からも感謝されないし、収入もポストも知的威信ももたらされないからである。そんな無駄なことは誰もしない。私が「アメリカ抜きの日本外交」がありえないと答えた理由は以上である。それは「日本には外交がない」ということとほとんど同義であるが、そのような国がこの先激動する歴史的状況を生き抜けるのかどうか私にはわからない。日本の長期低落傾向を「元気がないからだ」というような締まりのない言葉でまとめて、「東京オリンピックを誘致すれば元気になる」とか「道州制にすれば元気になる」というような「一攫千金」話している限り、国運の回復機会は決して到来しないだろうということしか私にはわからない。(引用ここまで)
その点で、以下の提案は興味深い。庶民の知恵に依拠してこそ、日米軍事同盟廃棄後の平和は構築できることを、この「声」は教えている。
「朝日」(10月2日付け「声」欄掲載)
尖閣諸島 共同管理の観光地に 主婦 山下 晶子 (東京都西東京市31)
尖閣諸島問題の解決は一筋縄ではいかず、日中両政府のどちらかが折れない限り、平行線のまま国家間の対立が続くだけだろう。 歴史を振り返れば、戦争の多くは資源獲得や領土問題に起因する。そうした負の歴史を繰り返すのではなく、前を向いて新しい領土統治の可能性を探るのも一つの解決策ではないかと私は思う。 そこで提案したい。日本と中国、台湾が尖閣諸島を共同管理し観光開発を進めてはどうか。旅行者が島の自然を満喫できる観光地を目指すのだ。 東京都の調査団が魚釣島で奥行き70びの洞窟を確認し、「有効利用すれば観光資源になる」というコメント付きの記事(9月3日朝刊)があったが、島旅が好きな私は正直、この洞窟を探検してみたいと思った。手つかずの島の豊かな自然を巡るのは楽しいだろう。 領土問題でもめる世界中のどの地域も成し得なかったことを、東アジアの国々が実現することはできないだろうか。理想論だと承知の上で、いつか平和な尖閣諸島を旅行できる日がくることを願ってやまない。(引用ここまで)