「毎日」の社説を読んで驚いたというか、呆れた!だが、やはり愛国者の邪論の指摘は間違っていないことが、ここでも証明された。
それは「沖縄差別」論が、日米軍事同盟正当化論の重要な根拠というか、日米軍事同盟免罪論の一つとして使われているということが、ここでもはっきりしたということだ。
だが、ここで断っておこう。それは、沖縄が置かれている位置について、一般的に言えば、「本土の沖縄差別」があったことは事実だ。近代史をみれば、明治初期の「琉球処分」から、アジア太平洋戦争末期の沖縄「捨石」論、そして戦後の天皇の沖縄「生け贄」外交、さらに核密約があったことをみれば、沖縄が本土と比べて差別され続け、それによって日本国が成り立っていたことは事実だろう。
だが、この「差別」をなしてきたものは何かということを曖昧にしてはならない。一般的に沖縄と本土との「差別」を述べても意味はない。確かに本土の政権をつくらせていたのは、主権者である国民である。しかし、そのことによって「差別構造」をつくり、利用し、利益を得てきたものを免罪することはできない。
「沖縄では日本という国そのものへの不信が広がりつつある」「本土の安全のため負担を引き受けてきた歴史のうずき」という「毎日」をはじめとしたマスコミが主張する「沖縄差別」論の最大の弱点は、ここにある。
「本土側の琉球・沖縄史への理解もまだまだ足りない。沖縄の重い負担を減らすためにも、この『内なる歴史問題』をなくしていくことが必要」という言葉も、あの「一億総懺悔」論と同様に曖昧だ。ここに、この「沖縄差別」論の本質的役割がある。
日米安保条約=日米軍事同盟は沖縄だけに適用されているのではない。確かに沖縄の負担は本土に比べれば、大きいだろう。だが、負担を本土が背負うことで、沖縄の負担が軽減するとは、とても思えない。
仮に普天間基地などが本土に移転した場合、沖縄の負担は軽くなるのか、また本土への基地移転で、沖縄に課せられていた負担が本土に移転することで、日米軍事同盟の本質が軽減されるのか、そのことを「毎日」をはじめとしたマスコミは「論証してみろ」と言いたい。沖縄の負担を本土に拡散しろと言うのか?
日米軍事同盟そのもののが、屈辱性・従属性・植民地性を持っているのだから、本土のどこへ基地を移転させようが、日本国民への負担は拡散するものの、軽くなるなどということはあり得ない。
「沖縄差別」論に基づく「負担軽減」論は、アメリカに対して卑屈な態度と言わなければならない。「沖縄差別」論を企画演出、演じているアメリカと日本国政府に負担軽減をお願いするのではなく、主権国家として、主権者として、屈辱性・従属性・植民地性からの脱却を要求していくというのが本筋である。
日米軍事同盟推進を前提とするマスコミが振りまく「沖縄差別」論は、日米軍事同盟の本質を免罪し、沖縄と本土を対立させ、連帯的行動をとらせない害悪と言わなければならない。こうして沖縄の負担軽減を事実上延長させてきたことを検証しなければならない。
「沖縄は植民地ではない」とする論理が正当である。だが、そうであるならば、「抑圧民族は、永遠に自由になれない」との歴史的命題が、この国に当てはまることを言わなければならない。アメリカ国民がそうであるように、沖縄を「差別」する本土の国民も同様に、沖縄を「差別」する限り、自由にはなれないということだ。ではどうするか?自由を奪っている日米軍事同盟を廃棄するしか、道はないのである。
そのことを日本のマスコミは一切語らず、「オスプレイは抑止力を向上させ日米同盟を強化する、という論がある。軍事的にはそうだろう」などと日米軍事同盟容認・深化論を述べながら「草の根同盟」などと誤魔化しているのだ。
さらに「問われているのはオスプレイ配備の是非ではなく」など言いながら、「強引なオスプレイ配備はそれを損ない、同盟をむしろ弱体化させはしないか」などと、ここでも日米軍事同盟深化の立場から、その危機を憂いているのだ。実に情けない新聞と言える。
以下「社説」を掲載しておこう。
社説:視点・本土と沖縄 内なる歴史問題=小松浩
毎日新聞 2012年10月06日 02時30分
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に移動した海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが、地域住民の不安をよそに訓練飛行を続けている。
配備されてしまえば反発はいずれ収まると政府はタカをくくっているかもしれないが、逆ではないか。配備反対の声を無視された沖縄では日本という国そのものへの不信が広がりつつある。その怒りの意味を認識しなければ、本土と沖縄の溝はこの先もっと深まるだろう。
ついに配備が始まりそうだという先月末、地元紙・琉球新報の社説は「沖縄は植民地ではない」と見出しに掲げた。沖縄では「配備の日程を変えず強行したのは沖縄に無力感や諦念を与える狙いがある。植民地統治の基本みたいなものではないか」との見方もあるという。
同じころ、那覇市で開かれたマスコミ倫理懇談会全国協議会の全国大会で講演した87歳の大田昌秀元沖縄県知事は「あの戦争で沖縄は本土を守るための捨て石にされた。沖縄は他人の目的を達成する道具だった。モノ扱いがこれ以上続くなら独立論も出てくる」と訴えた。
かつて独立王国だった琉球を強制廃止し近代日本に編入した明治の琉球処分、10万人近い民間人死者を出した太平洋戦争末期の地上戦、沖縄を本土から切り離した戦後のサンフランシスコ体制、米軍基地を集中させる結果になった72年の本土復帰。誇りを傷つけられ、多くの血の犠牲を払いながらも、本土の安全のため負担を引き受けてきた歴史のうずきが今、沖縄の人々の心を揺さぶっている。
本土に住む私たちは植民地や独立という言葉に驚く。ただ、そこまで強く言わなければ本土にはわからない、との思いがあるのだろう。鳩山由紀夫元首相の「普天間県外・国外移設」発言と挫折で噴き出した沖縄のアイデンティティーの主張は、もはや不可逆的な流れだ。
問われているのはオスプレイ配備の是非ではなく、沖縄の歴史と現実にどう向き合うかということである。日本と中国、韓国の間には歴史認識問題があるが、本土側の琉球・沖縄史への理解もまだまだ足りない。沖縄の重い負担を減らすためにも、この「内なる歴史問題」をなくしていくことが必要だ。
オスプレイは抑止力を向上させ日米同盟を強化する、という論がある。軍事的にはそうだろう。だが同盟を本当に強くするのは普通の人々が相手に抱く信頼感、つまり草の根の同盟意識である。強引なオスプレイ配備はそれを損ない、同盟をむしろ弱体化させはしないか。(論説副委員長)
http://mainichi.jp/opinion/news/20121006k0000m070133000c.html