愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

繰り返される体罰の温床に成果主義、戦争責任回避と憲法軽視があることを声を大にして言っておかねば!

2013-01-11 | 日記

またしても、あってはならない悲惨で不幸な事件が起こってしまいました。残念でなりません。夢多き子ども、若者が自ら命を絶ってしまうなど、これほど悲しいことはありません。彼の人生には無限の可能性があったはずです。その可能性を自ら絶ってしまったのです。

 こうした悲しい事件を二度と起こさないためには、何をなすべきか!大人と社会の責任が鋭く問われているように思います。

 そこで、この事件に対してマスコミがどんな内容で報道しているか、いくつかを見てみました。大方のマスコミは、大津のいじめと自殺の時もそうでしたが、学校と教師を隠蔽している悪者として扱いバッシングしているように思います。これは「閉塞社会」に不満を募らせている国民からみると、鬱憤晴らしのようにも見えます。

 ましてや、大阪市で起こった事件です。「市長が体罰などについて学校側の対応を直接指揮することを可能にする条例制定の検討を始めた」(産経)などのように、橋下市長のコメントを報道するマスコミをみると、公務員・教員バッシングにはもってこいの「材料」として利用しようとする姿が透けて見えてきます。愛国者の邪論の偏見でしょうか?

 橋下市長の発する一言一言は、問題ありの言葉でちりばめられています。先ほどもテレビで「30発、40発であれば、暴行、犯罪だ」と言っていました。「産経」では「30~40発殴られた」、これが「事実なら傷害、暴行で許されない」と書いてあります。

 「主つくるような人事」橋下市長、顧問の勤続18年を厳しく批判2013.1.10 12:02

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130110/waf13011012040022-n1.htm

 切り取られた発言のみで判断するのは早とちりかもしれませんが、市長の言い方ですと、「一発ぐらいなら許せる」という「体罰容認」論が根底にあるようにも思われます。それは、府知事・市長としておこなってきた政治、すなわち人権と民主主義を尊重しない橋下氏の有り様が見えているからです。

 こうした橋下氏の言動がまかりとおっているのは橋下氏を支持する、また持ち上げるマスコミと国民意識があることです。ここに注目していかねばなりません。

 そこで、こうした悲惨な事件が繰り返されるのは何故か、について述べてみたいと思います。

 その前に、「体罰」事件について、マスコミがどのように報道しているか、見てみました。

懲戒処分:部活指導で体罰、中学教諭を減給処分−−県教委 /兵庫毎日新聞 2012年10月25日 地方版

http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20121025ddlk28040520000c.html

 懲戒処分:体罰で王寺工高教諭を停職処分−−県教委 /奈良毎日新聞 2012年10月26日 地方版

http://mainichi.jp/area/nara/news/20121026ddlk29040514000c.html

 体罰:神戸の高校、監督を解任 野球部員に馬乗り毎日新聞 2012年12月14日 大阪朝刊

http://mainichi.jp/area/news/20121214ddn041040009000c.html

 共通しているのは、「体罰」が「暴力」であり、「人権侵害」で、「犯罪」であるとする意識が欠如していることです。今回の事件の直前に起こっている「体罰」事件の報道と今回の「体罰」事件による「自殺」事件報道の違いを観れば明瞭です。

 同時に、学校ではどうみているでしょうか?

教育界においても、「体罰は指導ではない」「法律違反である」とする「お達し」「通達」が文書で、或いは口頭でなされているようですが、タテマエとホンネはものの見事に違っていること、さらに酷いことには、「体罰」事件を起こし処分される教員を配慮する力学が働いて、生徒を護ることは後景に押しやられていること、いわゆる「体罰」の「隠蔽」など、大阪市立桜宮高校の校長の発言に象徴的です。

 橋下市長「どんな学校なのか。最悪」 市教委と学校の対応に怒り2013.1.8 22:50  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130108/crm13010822560027-n1.htm

 悲劇招く勝利至上主義 「事なかれ」教委、生徒聴取せず2013.1.8 23:55

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130108/edc13010823590002-n1.htm

  校長「体罰一掃」誓った夜、バレー部の平手打ち隠蔽2013.1.10 23:18

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130110/waf13011023260040-n1.htm

 「もうワンチャンスを」体罰隠蔽の校長釈明 記者会見一問一答2013.1.11 01:14

 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130111/waf13011101150001-n1.htm

 今、この事件を報道するマスコミの論調を見ていると、「体罰」事件を報告しなかった「隠蔽体質」に目が向けられているように思います。この「隠蔽」は当然問題です。では「隠蔽体質」が解決すれば「体罰」はなくなるのでしょうか?

 違うでしょう。何故ならば、「体罰」に対しては一応「処分」はなされてきましたし、上に掲載したように報道もされてきています。それでも「体罰」は起こっているのです。

 何故「体罰」事件が「隠蔽」されたのか、何故教育界では「体罰」が許されるのか、そこに何があるかを追及していかなければ、単なるバッシング、単なる「体罰事件報道」に終わってしまい、第二、第三の「体罰」事件と自殺事件が起こることは明らかです。

 では、こうした「体罰」を引き起こす要因に何があるか、考えてみました。

 

1.今回の「体罰」事件を起こした顧問の発言に見るように「体罰は教育の一環」という「錯覚」があることです。

(1)「教鞭を取る」という言葉があるように「愛の鞭」です。

(2)軍隊の内務班における新兵教育思想が教育現場だけでなく、日本社会に深く沈殿している。

(3)「身体を美しく」という「躾」論が色濃く残っている。

(4)生徒の親の中にも「悪いことをしたら、少しぐらい殴っても構いません」という「愛の鞭」観がある。

(5)「厳しい指導」と「暴力」が混在している。

 

2.こうした「錯覚」がどのように形成されてきたかを、追及してこなかった日本の社会と教育があることです。どのような残滓が残っているか、主なものを具体的にみると、

 

(1)現在学校教育に色濃く残されている戦前の教育の根本である教育勅語体制が色濃く残っている。安倍内閣の教育基本法改悪はその典型例。

(2)「御真影」礼拝は行事における「日の丸」礼拝、体育館のステージの壁に向かって一同礼=擬似「御真影」礼拝、「君が代」斉唱など。

(3)甲子園の入場行進にみる集団行動、持久力走=耐寒マラソン、体育祭(運動会)における棒倒し、騎馬戦、障碍物競争、万国旗の中心に「日の丸」掲揚など。

(4)日常的に「起立、礼」「朝礼」「気をつけ」「校訓」など、当たり前のように使われ、継承されている。

(5)以上指摘した諸項目の根本思想は、「軍人は忠節を尽すを本分とすべし…死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)と「軍紀の要素は服従に在り。故に全軍の将兵をして身命を君国に献げ、至誠上長に服従し、其の命令を確守するを以って第二の天性と成さしむるを要す」(歩兵操典)にある。

(6)これが今日、学校教育ばかりか、自衛隊や警察、消防などに継承され、民間会社が社内教育の一環として自衛隊に体験入隊をさせている。

(7)以上の思想と教育が、明治期に始まり、とりわけ大正末期から始まった学校教錬で具体化されていった。それが今日「体操」から転じて成立した「学校体育」「クラブ(部)活動」に「敢闘精神」「精神主義」として継承されている。

 バスケ部顧問“体罰は強い部に必要” 1月11日 18時54分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130111/k10014752191000.html

 

3.以上の思想と内容が、ポツダム宣言受諾、天皇の人間宣言、憲法公布、「教育勅語等の失効確認に関する決議」などの経過を経ながら、天皇の戦争責任回避と逆コースのなかで、憲法の理念を使って戦前を根本的に清算してこなかったことがある。

 

(1)そのことに関連して、教育基本法の理念のサボタージュと形骸化が、憲法のそれと同様に、日本社会や教育のなかで浸透させられていったこと。

(2)特に1947年に始まった国民体育大会における開会式の入場行進と天皇杯・皇后杯に見るように、スポーツを民主主義の訓練の場として、平和文化として位置づけなかった日本の風潮があります。

(3)こうした歴史的背景を受けて、教育界におけるスポーツと体育は、「勝利第一主義」「成果主義」に基づく教育として推進されてきました。この事件は「競争」と「勝利第一主義」を掲げる橋下イズムの結末を見ることができます。

(4)教育界を含めて日本社会の中に潜む「絶対服従精神」である「上意下達」「先輩後輩」を優先する組織の体質が温存されてきたことがあります。

 

4.特に、「1980年には大阪府の公立高校で初めてとなる体育科が併設され」「1982年3月には野球部が第54回選抜高等学校野球大会に出場している」大阪市立桜宮高等学校の歴史は、文部省の推進してきた学校「多様化」路線と「成果主義」路線の典型です。

http://www.ocec.ne.jp/hs/sakuranomiya-hs/

http://ja.wikipedia.org/wiki

 

(1)この「成果」をもって、「進学実績」の「成果」が強調され、生徒集めが行われ、今日に至ったのです。これは甲子園大会に出場するためには、優秀な選手を全国から集めるという風潮と同じです。まさに「文武両道」の成果をあげるためには、公立内の競争はもとより、私学との競争にも打ち勝たねばならないのです。

(2)学校内においては、こうした方向に「成果」をあげた教員が神格化され、尊敬されていくのは当然の成り行きです。「黙認」が横行する根本要因が、ここにあります。

(3)こうして成果をあげた学校に入学させるために、保護者・親も必死になります。少しぐらいの「体罰」は「厳しい指導」として大目に見られるのです。

(4)生徒の中にもレギュラーをはずされない為には、顧問に「服従」するしかなくなります。同じ生徒同士は競争の相手となります。

(5)顧問にしてみれば、勝利のためには生徒を将棋の駒のように扱うのです。「服従」を強要するのは当然です。この方向にそぐわない生徒は「叱咤激励」の「喝」=「体罰」を入れるのです。

(6)タテマエは「体育」「保健」「健康」「スポーツ」教育、「自主的」活動が奨励されていますが、ホンネは「何が本当の自由で、何が本当の個性なのか?本校では、集団の中で生き生きと生きる自分をみつけることができます。厳しい状況にあっても自分を見失わない強い自分、人にやさしくできる自分を発見することができます」という「校訓」に学校の教育目標が示されています。「知性・敬愛・活力」という言葉と実態の乖離、特に「桜高祭」に、戦前の教育が見事に継承されています。

①大日本帝国憲法の「臣民の権利と義務」の関係と日本国憲法の「国民の権利」を比較すると、この校訓がどちらを受け継いでいるか明瞭です。

②この考え方は、安倍自公政権が改悪した新教育基本法と昨年発表した自民党の憲法改悪案と同一線上にあります。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html

http://www.jimin.jp/activity/colum/116667.html

 (7)「体育」「保健」「健康」「スポーツ」に戦前の教育を継承している「服従」「精神主義」からは人権尊重という「敬愛」は育ちません。そうした集団に創造的な「活力」が望めるでしょうか?

(8)しかし、生徒自身は、「服従」と「自主」「自立」「自律」に悩みながらも実に逞しく生きているのだと思います。そうしたなかで学校と教育、教師に対する精一杯の「抵抗」として、死という選択を余儀なくされた悲惨で、不幸な事件だったように思います。

(9)そうした意味で、こうした教育と社会を何としても変革していかねばなりません。何故ならば、戦前の教育は、天皇のために死ぬことを強要する教育でしたが、戦後は、自分や社会の平和と進歩のために生きることを自主的に選択できる力を培う教育だったからです。教育者が、生徒に生きることではなく、死ぬことを教えていたとしたら、あの戦争の反省は何処へ行ったのでしょうか。

 

5.今こそ憲法を生かした学校と社会の徹底化を!憲法を改悪する時ではない!

 

(1)本来スポーツは、対等平等の下で行われる人間の営みです。ルールも「合意」によって変えていくことができます。その場合は人間の可能性を引き出し開花させるものです。例をあげれば、バスケットボールの3点シュート、9人制バレーから6人制バレー、ビーチバレーへの進化、ラグビー、サッカー、フットサルなど、その多様性は、好例です。スポーツの発展にとって人間尊重、人権と民主主義、憲法の理念は必要不可欠です。

(2)スポーツの発展には、あらゆる学問と科学の成果が不可欠です。栄養学、運動力学(スポーツ科学)、運動靴やユニホーム、各種施設や用具の開発など、あらゆる分野の科学・技術の発展、すなわりスポーツ文化の発展が、それです。今やコンピュータを使った解析で、試合や自分、チームを分析するのは当たり前のことではないでしょうか?ここに「精神主義」を持ち込む余地はありません。むしろ科学的分析力の向上によってファイティングスピリッツは向上していくのではないでしょうか?

(3)子どもの「体力」=「身体的な生活力或いは生存力」(正木健夫『子どもの体力』大月書店)を育てていくためにも、人間力、人間を見る目を養うこと、科学に裏打ちされた「体を健やかに保ち、育てる学問と教育」を徹底化させること、そのためにも人権と民主主義を重視し、科学を活用したスポーツの発展を、学校現場や地域・家庭から育てていく。この視点を踏まえてこそ、国民的スポーツの発展=スポーツの裾野を広げ固めていくになるのではないでしょうか?

(4)スポーツを楽しむためには「余暇時間、技能、費用、仲間、そして精神の解放」の獲得が必要不可欠だという考え方があります(中村俊雄『近代スポーツ批判 新版』三省堂選書)。これらの条件をクリアーするためには、どのようなたたかいが必要でしょうか?こうした側面からみると、長時間過密労働や低賃金、雇用形態など、労働者の人権が保障されなければなりません。ヱスビー食品陸上部は好例です。

(5)学校における部活動顧問である教師の人権はどのように保障されているでしょうか?部活動指導のために人権はないがしろにされていないでしょうか?人間力や技能などを学ぶために、顧問の余暇時間は保障されているでしょうか?そのための費用は学校が保障しているでしょうか?仲間とともに生徒の指導方法や種目の技能や、それらの基礎となる考え方を学び交流する時間は保障されているでしょうか?特に顧問の家族はどのような状況に置かれているでしょうか?顧問も教育労働者です。その人権がどのように省みられているか、そのことも社会は大切に見ていく必要があるように思います。

(6)そして何よりも「子どもの最善の利益」を保障する「子どもの権利条約」を学校や地域に具体化していく大人の営みを、さらに、さらに強めることです。子どもの意見表明権を保障する視点です。これらが学校や教師に徹底化されていたなら、今回のような悲惨な、残念な、不幸なことは起こらなかったのではないでしょうか?!

(7)こうした視点を貫くためにも、教育行政の果たす役割は大きいと言えます。上意下達、責任転嫁という無責任ではなく、「ほうれんそう」運営ではなく、教師の分断ではなく、あくまで生徒と現場目線にたって、教師集団の民主的運営と保護者や地域との連携を醸成していくために最大の力を注ぐべきではないでしょうか?

 桑田真澄さん 体罰は安易な指導1月11日 20時15分

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0111.html

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