大阪市立桜宮高校の体罰による生徒の自殺事件で、マスコミは、いつもの「事件」のように「ここぞ!」とばかりに、連日「体罰は許せない」「教育委員会と学校と顧問はトンデモナイ!」報道を繰り返し、その度に橋下大阪市長が登場させています。しかし、文部科学省によれば、この間「体罰」による処分が繰り返しなされているにもかかわらず、「処分」が減らない事態の奥深いところに何があるか、本質に迫った発言・議論・報道はされていません。
朝日 「部活での体罰禁止」 大阪・橋下市長、成人式で表明
http://www.asahi.com/national/update/0114/OSK201301140008.html
毎日 高2自殺:橋下市長、発言転換後も体罰ルール化依然模索 01月15日 06時49分
http://mainichi.jp/select/news/20130115k0000m040129000c.html
橋下氏は府知事時代の08年、「言っても聞かない子には手が出ても仕方ない」と発言。市長就任後の12年10月には文科省の通知を「ぬるい」と批判し、「もみあげをつまんで引き上げるくらいいい」として、独自基準を作るよう市教委に求めた。 しかし、今月12日、生徒の両親と面会してから大きく方針転換する。「スポーツ指導で手を上げることは全く意味がないと分かった。猛反省している」。14日に市内で開かれた成人式では「部活動で手を上げることは一切禁止する」とスポーツでの体罰一掃を宣言した。ただ、「学校現場で他人に迷惑をかけるとかの時には、手を上げることも認めないといけないかもしれない」とも話している。 市教委幹部は「体罰を容認するような発言は好ましくないと思っていた」と変化を歓迎する一方、「市長がどう変わろうと、教育行政の責任者は市教委だ」と話す。 村山士郎・大東文化大教授(教育学)の話 体罰に当たるかどうかを線引きするのは、「ここまでなら許される」という教師の言い訳を作るための論理だ。(引用ここまで)
この記事のように系統的に橋下氏の府知事時代・市長の体罰容認・人権軽視発言を報道したことは評価されなければなりません。しかし、今回の事件の本質にまで迫った記事にはなっていません。行政のトップである橋下市長の発言が今回のような「体罰容認」の温床になっている可能性は充分ありますので、その点についてマスコミは検証すべきです。同時に、橋下市長は、「行政の責任」に言及するのであれば、「体罰容認」論の本質を解明し、市長を辞職すべきです。
しかし、彼は、反省するどころか、未だ「手をあげる」=「体罰」を容認する発言をしているのです。本当に反省などしていないことが判ります。
同時に、この発言の「論理」に注目しておく必要があります。
「他人に迷惑をかける」時には「手を上げる」からと言って「体罰」を容認するのではなく、「他人に迷惑をかけない」子どもをどのように育てるかという教育の徹底です。
このことは、「国際紛争を解決する手段」として「武力」「暴力」による「脅し」を使うか、非暴力的手段を用意し使うかという平和主義の思想と論理の優位性を示す絶好の教材となっています。このことは後述します。
このような教育は憲法と子どもの権利条約の理念の立場から、子ども自身を権利行使の主体者として位置づけると同時に、子どもに権利行使を保障する責任を自覚させる教育を徹底していくことです。憲法の民主的原理である権利を守る責任論です。これこそが生徒を主権者として位置づける視点です。大日本帝国憲法の臣民論と、ま逆の位置づけです。
子どもの集団間において、子どもは自分の権利を守り、自分の権利を行使するためには、他人の権利を擁護しなければならないという当たり前のことを学ぶ教育の徹底化です。学級や部活動において、子ども自身にルールをつくらせ、集団の目標設定や、目標実現のための行動を、自らの行動として実践していくという指導です。
こうした指導が小学校から高校段階まで系統的に行われていたらどうでしょうか?以下の取り組みを文部科学省が奨励していたら、どうでしょうか?
埼玉県立川越高校の生徒会
http://www.kawagoe-h.spec.ed.jp/zen/seitokai/kiyaku.htm
長野県辰野高等学校学校三者協議会
http://www.nagano-c.ed.jp/tatsukou/plan/sansya.htm
平岸高等学校三者会議の取組
www.city.sapporo.jp/kyoiku/top/kodomonokenri/documents/21san
ところが、日本の教育は文部(科学)省、地方教育委員会、学校長、教師をとおして生徒に「上意下達」「服従」思想を徹底させる教育が行われてきました。このことは今回の事件で証明されました。部活だけではありません。
文部省の学習指導要領の徹底化をとおして、教科の指導、「特色ある学校づくり」、行事の指導など、すべての分野において、「強制」指導、ものを考えない指導が行われてきました。先生方の会議である「職員会議」が、先生たちの教育論や教育実践を交流し、合意軽視絵を得ていく場から、校長の「職務命令」を伝える伝達機関として変質させられてきたこと、学校現場が「対話と合意」から「ほうれんそう」に変わってきたことは、その象徴です。
教師も含めて、児童や生徒が自主的に、民主的に行動できる教育をサボタージュ、変質させてきました。その最たるものは、生徒の自主的卒業式を止めさせ、「日の丸」礼拝、「君が代」斉唱を強制する行事を「職務命令」と「処分」を振りかざし、「服従」を徹底させてきたことです。「職務命令」に違反すると「処分」するのです。この方策の根底に「特別権力関係」論があります。
こうした教育を浸透させていく一方で、「甲子園か、東大か」という言葉に象徴されるように、「有名中学から有名高校・大学へ、そのための部活動・スポーツ」を教師と生徒に課すのです。教師も生徒も部活動と進学指導での成果を求め、「人事評価」を課しながら、「学校生き残り競争」の渦の中にはめ込まれていくのです。そのために生徒の通学区を「自由化」「多様化」「個性化」の名の下に取っ払っていったのです。今回の市立桜宮高校の学科を見れば明瞭です。
そうして「」付きの「自主的」「自己責任」の名の下に、上述した教育が行われた結果、どのような教師と生徒が形成されたか、一目瞭然です。
もう一つあります。以下の記事です。文部科学省の責任について、何ら言及することなく「ヤンキー先生」を持ち上げる記事です。しかも「ヤンキー先生」自身の思想が、橋下市長と同じであることが、彼の発言から見て取れるのは、皮肉でしょうか?しかも、この「ヤンキー先生」、安倍自公政権の「教育再生会議」の看板かけにも登場していました。
首相教育再生会議の看板かけ 1月15日 18時30分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130115/k10014813851000.html
橋下市長や「ヤンキー先生」などは、今回の悲惨な事件について「反省」は口にしていますが、本当に「反省」はしていません。何故ならば、以下の記事を見れば明瞭です。
ヤンキー先生「暴力だ」…大阪市教委に抗議も(2013年1月15日13時55分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130115-OYT1T00465.htm?from=main2
会議終了後、記者団の取材に応じた義家政務官は、改めて「今回の件は恒常的な暴力」と強調。「懲戒的に行う『体罰』と矮小(わいしょう)化するべきではない」と述べ、文科省として、部活動、特別活動での体罰の定義について議論が必要との考えを示した。(引用ここまで)
毎日 大阪・高2自殺:文科政務官「体罰、線引き必要」 01月15日 11時59分
http://mainichi.jp/select/news/20130115k0000e010185000c.html
義家政務官は記者団に「今回の事案は日常的に行われた暴力だ」と述べた。一方、「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」とも述べ、体罰を一部容認するとも受け取れる発言をした。…義家政務官は冒頭、今回の問題について「教育行政の責任であると同時に、教育の『無責任』だ。安易に体罰という言葉が流布されているが、継続的、日常的に行われた身体的、精神的暴力と思う」と話した。 協議後、義家政務官は記者団に「市教委は方針を速やかに出せていない」と批判。文科省が問い合わせるまで報告がなかったことや、調査を外部監察チームに委ね、全校生徒へのアンケートなどによる事実確認をしていない点を指摘した。 一方、義家政務官は「気合を入れるための平手打ちは前時代的だ」と否定しながら、「強くなるために(体罰は)一定ある。目的は何なのかだ」と述べ、部活動での体罰と暴力の線引きが必要との認識を示した。学校教育法では、教育上必要があると認めるときに「懲戒を加えることができる」とする一方、体罰を禁止している。(引用ここまで)
「体罰」を「秩序」維持のための、また「成果主義」のための「手段」「抑止力」として位置づけているいることが判ります。これが教師の思想信条の権利を奪う安倍自公政権と橋下市長の一致した狙いなのです。
このような彼らの狙いは、実は「軍事力」「武力」「暴力」を「抑止力」として位置づける「日米軍事同盟」を「容認」「深化」させる思想と論理と同じであることが浮き彫りになったと思います。ここに最大の問題があると同時に、解決のための展望もあるように思います。
何故ならば、こうした路線では、再び同じ事件が起こる可能性があること、同時に、子どもの成長を育むことができないことは明らかだからです。
これについては、長くなりましたので、次に譲ります。