新潟市民芸術文化会館“りゅーとぴあ”の能舞台で、鷺流狂言を観る。
鷺流は江戸時代初期に、鷺仁右衛門が一代で築き上げた流派。
しかし明治時代に廃絶、地方に下った門弟の数名が土地の人々に狂言を伝授するかたちで、細々と命脈を保っていたという。
現在、伝存しているのは山口県と佐賀県、そして新潟県佐渡島の三ヶ所。
その佐渡島の保存団体が、今回「清水」を披露した。
彼らは本職ではない素人衆だが、大藏 . . . 本文を読む
自治体主催の音楽イベントで、能「敦盛」の地謡方をつとめる。
今回は、平敦盛が“蓮生法師”となった熊谷次郎直実と、仏法を仲立ちに和解する後半を見せる、「半能」での上演。
普段は囃子を伴わない、いわゆる「素謡」でたのしんでいる謡曲を、いざ舞台上で囃子やシテの動きに合わせて謡うとなると、まるで勝手が違ってくる。
平家の公達が“須磨の浦人”と成り果てた様をみせる件りなど、詞章といい節附といい、哀れ . . . 本文を読む
国立能楽堂で、金春流の「六浦」を観る。
紅葉が見頃をむかえた相模国金沢の称名寺で、一樹だけ紅葉しない楓がある。
鎌倉後期の公家歌人、冷泉為相が他の木に先駆けて紅葉する楓を讃えた歌を詠んだことを、楓は身の誉れとし、以降は身を退くが正しい道と心得て、紅葉しなくなったと云う―
退(ひ)き際を説いた究極のエピソードと捉えることも出来るが、この感覚は正直なところ、現代人にはつかみにくい。
古え . . . 本文を読む
文化ホールで催された芸能大会に参加し、「紅葉狩」を謡い、舞い仕る。
なんといっても本職ではない、芸事愛好者たちによる企画である。
事前確認で司会係が「紅葉狩」を読めなかったり、本番になって照明係との連携がうまくとれなくて、いつまでも舞台が暗いままだったり、進行係同士が舞台袖で静かに一触即発状態になったりしているのを、これもご愛嬌じゃと笑いを噛み殺し、気持ちも楽に舞台へ臨む。
『能楽は、本 . . . 本文を読む
秋の大祭がおこなわれている明治神宮で、神前奉納の能狂言を観る。
今回は朝から生憎の天候のため、神殿のなかに所作板を敷き、大藏流狂言「附子」と、観世流の能「猩々」が奉納される。
「猩々」は自分も何度か謡ったことがあり、また舞い仕ったこともある。
ゆえにこの曲の良さは、それなりにわかっているつもりだ。
-能楽を理解するには、おのれも実際に扇を手にとらなければ難しいものがあることを、わたしは . . . 本文を読む