迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊―中山道( 東海道)108 大津宿→逢坂の関跡→京三條大橋

2017-02-11 06:20:25 | 旧中山道
今は石碑のみの大津本陣跡を過ぎ、さらに坂を上ると右手には、京阪電車京津線の踏切越しに「蝉丸神社・下社」が見えます(上段写真)。 蝉丸とは、盲目の琵琶法師の名前。 世阿弥作の同名の謡曲では、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子で、盲目に生まれたため逢坂山に棄てられたとなっていますが、「今昔物語」では、宇多法皇の皇子である敦実親王の“雑色(ぞうしき、無位の雑役夫のこと)”となっています。 その敦実親王の . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道( 東海道)107 草津宿→瀬田の唐橋→石山寺→大津宿

2017-02-10 04:13:57 | 旧中山道
伯母川にかかる立木橋を渡って草津宿を抜けると、かつての立場(休憩所)で草津名物“姥ヶ餅”が売られていた矢倉地区を通り、矢倉南信号で国道1号線を渡った先には、「野路一里塚跡」の碑が、小公園として整備されたなかに立っています(上段写真)。 この先の野路地区は、中世には宿駅がおかれていたところで、 家並みにそれらしい風情があります。 また、現在では失われた「日本六玉川」の一つ、“野路の玉川” . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道106 草津宿

2017-02-09 04:15:40 | 旧中山道
「綣(へそ)」という、謂れは不詳の珍しい地名の地区を過ぎ、葉山川を渡ってしばらくすると、左へゆるやかにカーブして草津宿へ入るのがかつての道筋でしたが、その部分は東海道本線の線路で消滅しているため、付近の暗渠をくぐり抜け、すぐ線路に沿って曲がって進みます。 その先で陸橋をくぐり、渋川町に入ると、時代の新旧が混在したなかにも、 旧宿場の雰囲気が漂いはじめます。 JR草津駅前にあたる大路 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道105 武佐宿→鏡の宿→守山宿

2017-02-08 04:09:58 | 旧中山道
武佐宿をたってしばらくすると、国道8号線に合流。 千僧供(せんぞく)町では、後鳥羽上皇の怒りに触れて打ち首になった法然上人の弟子の首を洗ったと云う「住蓮坊首洗池」―但し現在は渇れ池―、田んぼのなかに一里塚そっくりな姿を見せる「千僧供古墳群・供養塚古墳」を見て過ぎ、馬渕町から右手へ分かれる旧道へと入り、東横関町の田んぼのなかを、直進します(上段写真)。 やがて横関川(日野川)の堤に行き当たり、 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道104 老蘇の森→沙沙貴神社→武佐宿

2017-02-07 04:55:02 | 旧中山道
古い家並みが続く老蘇地区を抜けると、ちょっと寄り道することにして、亀川交差点を右折、安土街道を上って行きます。 道なりに歩くこと約20分、やがて右手に、こんもりとした杉木立が見えてきます。 近江源氏の祖である宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王を祀った「沙沙貴神社」の森です。 この神社を訪ねることも、今回の中山道近江路を歩く目的の一つ。 それは、わたしが伝統芸能家の道を志すきっかけとなっ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道103 愛知川宿→老蘇の森

2017-02-06 04:42:46 | 旧中山道
次の愛知川宿までの二里(約8㎞)の道は大きなカーブもなく、ほぼまっすぐに続いています。 無賃橋を渡って住宅が集まる法士(ほうぜ)町を過ぎ、かつてはつづらが生産されていたと云う、その名も葛籠(つづら)町に入ると、わずかばかりの松並木が(上段写真)。 それを通して望む近江平野に、「見たかった景色にやっと出逢えた……」と、しばし足を留めました。 そして出町、四十九院と過ぎ、かつて立場(休憩所 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道102 高宮宿

2017-02-05 08:46:37 | 旧中山道
新幹線の高架下をくぐり抜け、面白味のない景色がつづく直線の道を行くこと約30分、芹川に架かる大堀橋を渡ると、右手に石清水神社の小高い丘が見えます。 この石段の中程、右手にあるのが「扇塚」。 江戸時代中頃、猿楽の喜多流九代目家元だった喜多七大夫古能(きた ななつだゆう ふるよし)は、隠居後に彦根に数年滞在し、多く門弟を育てましたが、いよいよ江戸へ帰る時、門弟たちへの餞別として、能面と扇を贈り . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道101 摺針峠→鳥居本宿

2017-02-04 06:24:37 | 旧中山道
名神高速に沿って小摺針峠を越えると、麓に立てられた道標に従って(上段写真)、右に進路をとります。 やがてはじまる急な勾配を辛抱して上ると、摺針峠の頂上に到着。 ここにはかつて、「御小休御本陣」と自称するほどの威容を誇った「望湖堂」なる茶屋本陣がおかれて、ここからは北近江の景色が一望できたとのこと。 いまも辛うじて、それらしい景色を眺めることができます。 望湖堂を過ぎて下り坂に差し掛か . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道100 番場宿→摺針峠口

2017-02-03 05:46:20 | 旧中山道
近くを走る名神高速の騒音が気になるものの、番場宿に至るこの道はさすが日本の四季を感じさせる素晴らしい……、と思ったとき、なんと道端に、一匹の猿が。 わたしが通りかかると、猿は慌てて紅葉の枝に飛び移り、そこからわたしを睨み付けていました。 しかもその先の民家の庭には、やはり猿が何匹か屯しており、近所のお爺さんが「ぐぉらぁ〜ッ!!」と、懸命に追い払っていました。 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道99 醒ヶ井宿

2017-02-02 05:47:11 | 旧中山道
柏原宿を過ぎてほどなく、左手の田んぼのなかに、復元された一里塚があります(上段写真)。 さらに進むと、さきほど柏原宿入口の手前で分岐した旧東山道が、右手の坂から下って合流しています。 この右手の山中には、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒に失敗した、いわゆる“元弘の変”で幕府方に捕らえられ、翌1332年に佐々木道誉の命乞いも空しく斬首された公家の北畠具行の墓所があります。 しかし . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道98 柏原宿

2017-02-01 06:04:07 | 旧中山道
“美濃十六宿”まで歩いた旧中山道、これより“近江路”を歩いて、京をめざします。 美濃国と近江国との境を過ぎ、長久寺地区に入ると、道は松と紅葉の並木道となります(上段写真)。 これは、中山道の前身とも云うべき旧東山道のかつての道筋と重なっており、柏原宿の手前にある神明神社の鳥居脇で右へ分岐しているのが、 その旧東山道の名残りです。 ちなみにこの旧東山道は、柏原宿を通る中山道が整備された . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道97 今須宿

2016-08-20 07:04:37 | 旧中山道
旧道は藤下の先で国道21号線を渡ると、江戸時代には立場(休憩所)がおかれていた中山という集落へと入ります(上段写真)。 江戸時代以前には宿駅がおかれていたと云うこの集落は、現在は東海道本線と東海道新幹線、そして旧中山道と、新旧三種の交通が交差している地点となっています。 山中集落の外れで「“伝”常盤御前の墓」を右に見て過ぎると、道はやがて東海道本線に沿って上り坂となり、今須峠へと入ります。 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道96 関ヶ原宿→不破の関跡

2016-08-20 05:51:38 | 旧中山道
野上を過ぎると、桃配山(ももくばりやま)の松並木を経て国道21号線に合流、関ヶ原宿を目指します。 このあたりは“天下分け目の戦”に参戦した武将たちの陣跡が散在していますが、それらについてはすでに戦国マニアたちがいろいろと語っていることでしょうから、わたしは構わずスタスタ歩いて、関ヶ原宿へと入ります。 かつての宿場は、東海道本線の関ヶ原駅前がそれに当たりますが、 ↑写真右手に本陣跡、その . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道95 垂井宿

2016-08-19 22:30:22 | 旧中山道
西濃鉄道の廃線跡を過ぎ、そのむかし善光寺へ仏像を運ぶ一行がここで昼飯をとったことからその地名がついた云う「昼飯(ひるい)」地区を過ぎると、中世に宿駅がおかれていた「青墓(あおはか)」にさしかかります。 家並みにかつての雰囲気を感じるこの地では、今を去ること1159年、平治の乱に敗れた源義朝の次男で頼朝の兄にあたる源朝長は、ここ青墓宿の遊女屋に深夜駆け込み、膝に負った重傷にもはやこれまでと、十 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊―中山道94 赤坂宿

2016-08-19 22:09:35 | 旧中山道
やがて瑞穂市の行政機関を右手に見て長護寺川を渡り、田んぼのなかをまっすぐに伸びる道を行くと、揖斐川のほとりに出ます(上段写真)。 しかしこれは、大正14年(1925年)の河川付替え工事によって出来た流れで、本来の揖斐川はそこから少し西、皇女和宮ゆかりの「小簾紅園」脇を流れる現在の呂久(ろく)川が、 それに当たります。 現在でこそ用水路のような細い流れですが、かつては90㍍もの川幅があり、 . . . 本文を読む
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