迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

さりながら、さりながら。

2011-05-23 22:53:24 | 浮世見聞記
国立大劇場へ、劇団前進座の創立八十周年記念公演を観に行きました。

序幕の「唐茄子屋」では、長屋の人々のセリフ、

「たった四文で人助けができるなら…」

に、時節柄かなりのリアリティーをもって聞こえのが印象的。


中幕の「口上」は歌舞伎式に白粉を塗って裃を付けても、芸名が歌舞伎名でなくては…。


「秋葉権現廻船噺」は見たことも聞いたこともない狂言なのも道理なれ、この劇団が誕生して間もない昭和9年に復活上演して以来、今日まで全く日の目を見なかったもの。

そんな初演に近いような芝居を、プログラムに掲載のあらすじも、イヤホンガイドも必要のない、観たままで存分に楽しめる、大劇場に相応しい品格ある娯楽大作に仕上げたこの劇団の力量は大したもの。


さりながら。

座の立女形が、あろうことかドサ廻りの役者と、あろうことか“歌舞伎”を演じるとの予告に、唖然憤然。

13年前に六代目として継いだこの大名跡の“意味”を、よくよく考えていただきたいもの。

歌舞伎は庶民の娯楽ですが、低俗なものではありません。




夜は観世能楽堂の、「東日本大震災義援能」へ。



入場料\3000は全額、被災地への義援金に充てられるとのこと。

ならば…!と、私も3月11日以来考え続けている、

「自分には何が出来るか?」

の心でチケットを購入。

ですから今宵は、能を楽しむためではなく、あくまでも被災地と被災者の方たちを、自分なりに援助するための観能。

演者も、そのほかの観客も、思いは同じ。

開演に先立って舞台で挨拶をした観世流宗家をはじめ、通常の公演とは全く異なる、粛々とした雰囲気での演能となりました。




それにしても気になるのは、全国各地から集まった義援金は相当な額になっている筈なのに、未だに被災地へ分配されていないというのは、どういうことでしょう?

政府は、国民からカネを巻き上げる時のアノ手際良さが、どうしてこういう事になると発揮できないのでしょう?

被災地や被災者の心情にかこつけて、相も変わらず己れの権益のことばかり宣っている場合ではないはず。

彼らが、実際には被災地や被災者のことなどこれっぽっちも考えてなどいない様子は、画面を通してさえ明らか。

それに、彼らが何を喋っているのか、最近ではさっぱりわかりません。


「この震災を政争の具にしてはならない」-

よくもまァ言えたものだと思います。



そこで、こんな大津絵を模写してみました。



「提灯と釣鐘」。

軽いはずの提灯が下がり、重いはずの釣鐘が上がっていることから、後世になってこのような意味付けがなされました。

“重んずべきことが軽んじられ、どうでもよいことが重んじられる”
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1 コメント

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そうでしたか・・・ (ししまる)
2011-05-27 16:00:14
前進座の若手はガンバッテます。
しかしなぜか活気と流れと目指すものが外野からは感じられない。
最早『前進座』という名前においてけぼりを食っているように見える。
なぜか いまひとつ・・・見えない・分からない。

という 芝居をみてもいない人間の感想デアリマス。
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