この町のアパートに引っ越して一年が経った春の一日、アパート裏の石垣の上に鎮座する神社で春季例大祭が行われていたので、休日でもあり出かけてみることにした。地域の人たちが露店で食べ物や生活リサイクル品を売ったり、また満開の桜の下では野点(のだて)が行われるなど、賑やかさと雅びやかさが一体となった楽しい空間が、そこには広がっていた。そんな一角に、古い写真をパネル仕立てにして展示したテントがあり、私は興味 . . . 本文を読む
その後も向かい家の少女とは、門口で時間を問わず会った。いや、会った、というより、向こうから一方的に冷たい瞳で“刺して来た”、と言ったほうが当たっている。私はどう考えても、あの白いワンピース姿の少女から、そのような視線を向けられる覚えがなかった。一体何なのだろう……?私は一度、思い切って少女に問いかけようと試みたことがある。しかし少女は、門口からぱっと奥へ退(しさ)って、今度は樹木に囲 . . . 本文を読む
私がその町の新築アパートに引っ越して、この春で一年になる。二階建て全八室のアパートの、二階角部屋が私の住まいだが、ベランダの外は高い石垣で、眺めはまったくよくない。しかし、深夜だろうがお構いなしに騒音をたてる隣人に辟易して前のアパートを引っ越した私にとって、“静かな生活”こそが求める全てであったので、窓からの景色は問題ではなかった。だから、私が引っ越して来てから間もなく満室となったこのアパートの、 . . . 本文を読む
僕はこれがきっかけで、今回の話しがフイになるかもしれないと思った。
が、それでも構わないと思い直した。
知人の紹介でなかったら、そして本人がそこにいなかったなら、むしろ僕から辞退を申し出たかもしれなかった。
そして、この初老の名門能楽師が息子ほども年齢の離れた若輩の絵描きに、なぜ記念扇の絵の依頼を決めたのか、読めた気がした。
彼が最後に、
「今回の御縁をきっかけに、ぜひ稽古を始められるべ . . . 本文を読む
xx流能楽師の須藤謙吾が、未成年の女子大生への強制猥褻で書類送検されたとラジオのニュースで聞いた時、
なにやってんだ……。
と、僕はいささかの幻滅を感じないではいられなかった。
よりによって、なんで未成年(ガキ)なんかに……。
僕はスマホのニュースサイトで内容を改めて確認しながら、溜息をついた。
事件は一週間前の十月旬、北陸地方の某市で薪能が行われた晩に起きた。
終演後、スタッフとして . . . 本文を読む
無事に帰京したのち、僕は平穏な日々を送っていた。
そんな十月の初日、
“葛原市朝妻町で開催された町おこしイベントの会場で、大爆発事故が発生して死傷者が多数”―
というニュースをTVで知り、僕は腰が抜けるかと思った。
神社境内の仮設ステージでバンドグループが演奏中、演出で大量に散らせた火花が折からの横風に乗り、近くの露店で自家発電機に注入中していた燃料へ引火したのが、原因とみられる―
しか . . . 本文を読む
「この土地の人間は古くから、自分たちの平穏を乱す闖入者には、容赦しない風習があります。
せやさかい、あかりの出生を暴露したあの男も……。
あ、まぁ、それは、いいとして、今からならまだ、東京行きの特急と接続する列車に、間に合います」
さあ近江さん急いで、と促す下鶴昌之に、僕は「なぜあなたは……」と問いかけると、
「東京で、あかりの命を救って下はったことへの、私からの恩返し……の、つもりですわ . . . 本文を読む
下鶴昌之は再び草に腰を下ろして、“告白”を続けた。
「彼女からそれを告げられた時、正直おどろき、焦りました。
子どもをつくる気ィなんて、さらさら無かったやさかい……。
せやけどそれが、私が立ち直るきっかけとなりました。
彼女は程なく、嵐昇菊師匠と夫婦になり、やがて先生の子として、あかりが産まれたのです。
私は内心ではいつも、嵐師匠にすまない気持ちでいっぱいでした。
先生があの子を、とて . . . 本文を読む
僕が図書館で調べた地元新聞の縮刷版によると、火元は社務所、折からの風に煽られて社殿に燃え移り、さらに敷地内に隣接する宮司宅にまで延焼して明け方にようやく鎮火、社務所、社殿、宮司宅は全焼―
社務所の焼け跡からは、隣接する宮司宅に住む“日本舞踊師匠”嵐昇菊氏の遺体が発見されたが、検死の結果、首に縄で絞められた跡のあったことから、出火は死亡後と考えられる―
なお、死因については自殺と他殺の両面で捜査 . . . 本文を読む
「『あんたが娘やと思うているあの子、ほんまに自分の娘やと、思うてるのか?』
……そのとき初めて、嵐師匠の表情が動きました。
何を言っている?― そうした不審の表情でした。
熊橋さんが、『君、失礼や!』と一喝しはりましたが、男は怯まずこう喚きました。
『あの娘は、あんたの奥さん、いや、あんたが奥さんと信じている女が、ほかの男との間につくった娘なんやぞっ……!』」
下鶴昌之は唇を噛みしめ、眼 . . . 本文を読む
「それで、お祭り当日の助六は、どうだったのですか……?」
下鶴氏の話しに、僕もいつしか引き込まれていた。
「それは、素晴らしいものでした……」
下鶴氏は感に堪えないような声を出してから、急に気恥ずかしそうな顔をした。
「失礼、つい……。せやけどな、あの時のあかりちゃんの舞台姿は、いまもよう憶えていますわ。むきみ隈がよう似合う、ちょっと色気のある化粧顔で……」
歌舞伎の“むきみ隈”は、年若 . . . 本文を読む
「それはまず、“女人禁制”を改めることでした」
話しはいよいよ、核心に入ろうとしている。
僕は秘かに、生唾をのみこんだ。
下鶴昌之は、僕が話しに食い付いているのを確かめたかのように、ひとつ小さく頷くと、
「それを最初に言い出したのが、なんと宮司さん本人やったのです。われわれ一同、初めはほんまに耳を疑いました。熊橋さんは『何を言うてはります!』と、宮司さんに掴みかからん勢いやったですわ」
. . . 本文を読む
「しかし、そんな宮司さんに、朗報が舞い込んできました。
日本舞踊を習っている氏子の一人が、嵐昇菊先生を紹介したのです。
もと歌舞伎役者の日舞師匠、しかもまだ若いという点が気に入って、ちょうど今までお願いしていた振付の師匠が、老齢を理由に引退したがっておったのを幸い、宮司さんは保存会長の熊橋さんを通して、嵐師匠に後任を依頼したのです。
―もちろんこの時すでに、娘婿にする腹積もりやったのでしょう . . . 本文を読む
「そうなんですか……」
僕はもとの宮司家のことを、いかにさりげなく訊き出すかを考えた。
ところが下鶴昌之は、妙なことを言い出した。
「近江さん、姫哭山のてっぺんまで、ハイキングしませんか」
「え?」
またあの、悪天候の山に……?
下鶴昌之は、僕のそんな心中を察したように山を見上て、
「ああ……。いまは、頂上の天気は落ち着いてますわ」
と、笑った。「あの山は、ほんまに頂上だけが、コロ . . . 本文を読む
僕は一度ホテルに戻ると、とりあえずスケッチブックはバッグに入れて、姫哭山へ向かった。
旧朝妻宿へは、あの山城跡を越えて行くのが、一番近い。
昨日に続いて二度目ということもあって、例の獣道も大して苦にならず、頂上に着いた。
“山の天気は変わりやすい”の言葉どおり、葛原市街の晴天に対して、山頂は灰色の重たい雲がかかっていた。
そして強めの冷たい風が吹いて、昨日スケッチした松の枝を揺らしていた。 . . . 本文を読む