活弁士の第一人者、澤登翠さんのリサイタル「第22回 澤登翠 活弁リサイタル」を観に、新宿の紀伊國屋ホールへ。
客席には若年層の姿も見られるなど満員の盛況、他のリサイタルとは一味ちがった活気に満ちていました。
上映作品は、チャップリンのいかにもキーストン時代らしいドタバタ喜劇「チャップリンの『衝突』」(1914年)、主演の阪東妻三郎(バンツマ)の整った目鼻立ちが現在(いま)なおシビレる「坂本龍馬 . . . 本文を読む
クリスマス騒ぎの後は即お正月に衣更えと、何とも忙しいニッポンの年末。
都内では、“しめ飾り”の発売準備が始まりました。
徒らに浮かれ騒ぎをしたいだけ、又それをけしかけているだけのクリスマス風景と違って(クリスマスは神粛なものでしょ?)、こちらには
「ああ、今年もいよいよ終わりだなぁ…」
と、なんかこう、身をピリッと引き締める師走の“気”のようなものが感じられて、私はこの風景の方が好きです。 . . . 本文を読む
最後は、海に消えた台場。
“第二台場”は、第五台場のほぼ東、第六台場の南々西にありましたが、戦後、大型船航行の妨げになると云う理由で、昭和28年から36年にかけて撤去され、姿を消しました。
上段写真の、中央部にあったと推測されます。
この第二台場には、明治3年(1870年)に点灯された洋式灯台がありましたが、現在は愛知県の明治村に移転保存されています。
“第七台場”は第四台場同様、財政難 . . . 本文を読む
現在の港区港南4-3、天王洲アイルの「シーフォートスクエア」が、かつての“第四台場”。
つまり、シーフォートスクエアは第四台場の“遺構”の上に造られた、と言うことができます。
第四台場は、完成まであと少しのところで幕府の財政難によって未完に終わったため、周囲の石垣も本格的には積まれていなかったそうです。
第四台場が埋め立てられたのは戦前の昭和14年と早く、目黒川の改修工事で出た大量の土砂を . . . 本文を読む
かつて台場が存在した場所を現在の地図に重ね合わせると、↑のようになります。
数字が台場の番号ですが、こうして見ると、ランダムに並んでいたことが分かります。
“第一台場”とその約450メートル北北東にあった“第五台場”の一帯は昭和26年から37年にかけて埋め立て工事が行なわれ、現在港区港南5丁目と品川区東品川5丁目に跨がる「品川埠頭」となっています。
周りを囲まれるようにして埋立地と地続き化 . . . 本文を読む
周知の通り、東京湾のお台場は江戸幕府が治世も末期に差し掛かった1853年(嘉永6年)と1854年(安政元年)の二度に分けて造った、国防要塞の一種。
現在は人工の砂州で繋がっていて歩いて渡れる“第三台場”(上段写真)と、完全立入禁止の“第六台場”↓
の二つが国の史跡として現存していますが、もともと造られたのは七つで、昭和14年に一部を残して埋め立てられた“第四台場”と、海底での基礎工事の段階 . . . 本文を読む
三鷹市下連雀の「杏苑」で“水戸藩らーめん”を食べてから、三遊亭小圓朝さんの独演会「第20回 武蔵野 小圓朝の会」を聴きに、武蔵野芸能劇場へ。
一席目は、お念仏を唱えながら周りの些細なことが気になって仕様がないお爺さんの噺で、サゲがなかなかブラックな「小言念仏」。
絶え間ない木魚の音が、お念仏と俗な小言が絶妙な間で交互する可笑しさを際立たせていました。
三遊亭橘也さんの「牛ほめ」の後、二席目は . . . 本文を読む
忘日朝、都心忘駅前の光景。
目にするたび、決まってチャップリンの「モダン・タイムス」の冒頭シーンを思い出します。
私は子どもの時から、こういう毎日を繰り返す生活だけはしたくない、と強く思っていました。
ですから、成人してから一度も、この群集に混じったことはありません。
これから先も、そうありたいもの。
いまさらムリだもの。
精神的に。
この時期の風物詩としてすっかり定着してしまっ . . . 本文を読む
万治の石仏から約1キロ、10分ほどで、下諏訪宿に到着。
この宿場町は甲州道中の終点であり、また中山道唯一温泉地とあって、昔も現在(いま)も、変わらぬ賑わいをみせています―旧宿場内には↓の如く、温泉が湧き出ている場所が数箇所あり、
試しに手を入れてみたら思ったよりも熱くて、「あちち…!」と慌てて手を引っ込めました。
和田宿から下諏訪宿までの距離は、中山道最長の21.5キロ、所要時間は休憩 . . . 本文を読む
町屋敷の三又の分岐点を、左の坂へと行くのが旧中山道↑。
この坂を上りきった正面に見えるのが、七年に一度、男たちが盛大にケガをする「御柱祭(おんばしらさい)」の会場、“木落し坂”。
この裏手に旧道として比定されている細道を下り、砥川沿いを行くこと約30分、右手に見えてくるのが「諏訪大社下社春宮」の木立、旧道はその脇を通り、左へカーブしながら坂を下って下諏訪宿へと入って行きますが、坂の途中で右 . . . 本文を読む
川崎能楽堂で、「第91回 川崎市定期能」を観ました。
初めが和泉流(三宅家)狂言「宗八」。
殺生に嫌気がさして出家した元料理人の男が、事の成り行きで僧衣のまま再び包丁を握って魚を捌いて見せるシーンが見どころ、その裏に潜む風刺が感じられます。
能は観世流で「一角仙人」、私の大好きな「歌舞伎十八番の内 鳴神」の原典となった曲で、これもぜひ一度観ておきたいと願っていました。
“雲の絶間姫”にあた . . . 本文を読む
西餅屋跡で国道を横断すると、旧道はその崖下を流れる餅屋川の渓流に沿って続きますが、少し前の資料ではこの区間は現存せず、としていることから、どうやら最近の調査で発見、整備された道筋のようです。
足を踏み入れて間もなく、盛り土の痕跡がそれであることを示している「一里塚(五十三里塚)」跡(上段写真)を通り、そしてその先の光景を目にして、
「神様、これは何かの試練なのでしょうかっ…!?」
一体私 . . . 本文を読む
下諏訪宿側の下りは、いきなり崖を滑り降りるような道からスタート、また碓氷峠に戻ったかと、錯覚をおこしそうに。
時には上段写真のような、崩落寸前の地点なども通り、下諏訪町教育委員会が短い間隔で設置したポールがなければどこが道筋なのか判らないような坂…、いいえ、“崖”をジグザグに下るうち、積み重ねた石だけが僅かに残る「石小屋」跡まで来て、ようやくいくらか傾斜が落ち着き、それでも石がゴロゴロしている故 . . . 本文を読む
東餅屋跡から和田峠の頂上までは、↑のように“ビーナスライン”を何度か横切りながら進むことになります。
木立に覆われた相変わらずキツイ勾配を上ること約15分、一気に視界が解放されて、和田峠の頂上に到着。
残しておいた力餅を口にした時の、あの美味さといったら!
ここからは下り坂。
残りの道を、下諏訪宿へと急ぎます。
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施行所を出発して約30分後、坂の途中に現れたのが「広沢一里塚」↑。
簡単な絵図入りの道中記以外にあまり情報が無かった古えの旅人たちにとって、いま自分はどれくらいの距離を旅しているのかを知る上で、一里塚がいかに頼もしい存在であったか、私もここまで旅を重ねて、だんだんと実感出来るように。
私の足で、1時間でだいたい4キロ。
一里塚(跡)を見れば、時計を見なくてもだいたいの所要時間が分かるようにな . . . 本文を読む