迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊──東海道61 品川宿→江戸日本橋

2019-10-23 07:26:00 | 旧東海道
京側から南品川、北品川、徒歩新宿(かちしんじゅく)と三つの区域から成る品川宿は、大勢の飯盛り女で大繁盛した宿場で、吉原の“北夷”に対して“南蛮”と云われたほどでした。江戸の町人が女郎買のために品川宿までよく足を運んでいたことは落語などからも窺え、実際に昭和三十年代までは“赤線”としてその面影が濃厚に残っていたようです。しかし現在では昔ながらの道幅に沿って普通の商店や住宅が軒を連ね、毎年秋口に行なわ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道60 六郷の渡し→品川宿

2019-10-22 07:57:00 | 旧東海道
六郷橋の下り車線側を渡り、そのまま下へおりて国道の側道から裏道へと続いているのが旧道、六郷神社脇にあたる東六郷3-12-17あたりで、国道15号線に合流します。その六郷神社の境内には、さきほど渡った六郷橋が木橋だった明治期の親柱が保存されており、傍らの案内板には橋が洪水でたびたび流出した歴史が記されています。ここから蒲田を経て大森まで、現道はほぼまっすぐに続きますが、これは元和九年(1623年)に . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道59 川崎宿

2019-10-21 07:28:00 | 旧東海道
せまい道幅のわりに車の通行量の多い旧市場村を過ぎると、八丁畷という文字通りの直線道となり、途中で京浜急行線の線路で分断されていますが、その向こうにつづく縄手を日進町、小川町と経て、かつて小土呂橋が架かっていた新川通りとの交差点を過ぎると、神奈川宿から二里半(9.8Km)の川崎宿に到着。明治時代以降、工業都市として大発展と大変貌を遂げた川崎ですが、江戸時代に宿場がおかれた当初は貧窮した寂しい宿場町だ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道58 旧生麦村→旧市場村

2019-10-20 06:52:00 | 旧東海道
鶴見区に入ると間もなく首都高速道路の高架下に入って貨物線のガードを潜り、ビール工場の前で旧道は右に分かれます。首都高速道路の高架線に低く蓋をされて、白昼でも薄暗いこの場所の手前右手には、文久二年(1862年)八月二十一日に発生した“生麦事件”の遭難碑があります。(※石碑の建立は明治十六年)作家の吉村昭は小説「生麦事件」のなかで、この事件こそが近代日本の幕開けだったと主張していますが、この界隈の沿岸 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道57 神奈川宿

2019-10-19 09:10:00 | 旧東海道
青木橋を渡り、京浜急行線の駅名にその由緒を残す「神奈川駅」前を過ぎて「宮前商店街」のアーケードを潜った先の青木町は、マンションばかりが建ち並ぶ、商店街とは名ばかりのつまらない景色となっています。そのなかでわずかに江戸時代の面影を残す地形が、洲崎神社の鳥居前から国道15号線第一京浜道路に向かって緩やかに傾斜した道。これは洲崎神社のかつての参道で、突き当たりの国道15号線は、江戸時代には波打ち際でした . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道56 程ヶ谷宿→神奈川台関門跡

2019-10-18 07:54:00 | 旧東海道
程ヶ谷(保土ケ谷)宿は本陣を頂点にして直角に伸びる宿場で、京寄りは拡幅された国道1号線、(写真右手の古い家はかつての旅籠)添え木された門だけが辛うじて残る旧本陣の前で左折し、国道から分かれた江戸寄りにはかつての道幅が残り、時代の変遷による宿場の新旧を続けて見ることが出来ます。東海道線の踏切を渡り、金澤文庫へ通じる金澤道との分岐を過ぎてしばらく行くと、保土ケ谷駅前から道幅が広くなり、ごく現代的な風景 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道55 不動坂→品濃坂→焼餅坂→権太坂

2019-10-17 07:43:00 | 旧東海道
戸塚宿の江戸見付を過ぎ、かつて小田原北条氏の家臣だった石巻五太夫が天正十八年(1590年)、江戸入りする徳川家康を出迎えた古跡と云う五太夫橋を渡り国道1号線から分かれ、旧道の風情が残る舞岡町に至ると、左手の道沿いにいかにも由緒ありげな煉瓦づくりの建物が。これは明治時代に製造が始まった「鎌倉ハム」の冷蔵庫として使用されていたもので、建造は明治二十年頃、ちょうど横浜港の“赤レンガ倉庫”と同時代だそう。 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道54 戸塚宿

2019-10-16 07:12:00 | 旧東海道
国道1号線を行くこと約三十分、かつて一里山と呼ばれた原宿二丁目の上り勾配の途中には、名称の元となった一里塚の跡があり、坂を登りきった吹上信号から先の高台には、松並木の名残りが中央分離帯の代わりとなって、しばらく続きます。主要国道のわりに、道筋がうねうねとしているところは、いかにもかつての松並木の道をそのまま拡幅した感じで、古い絵や古写真に見る往年の風景とを思い比べると、文字通り“隔世の感”がありま . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道53 藤沢宿→鉄砲宿→影取町

2019-10-15 07:50:00 | 旧東海道
藤沢宿は東海道から大山、江ノ島、鎌倉へとそれぞれへの分岐点で、江戸見附そばには時宗総本山の「清浄光寺」──遊行寺があるなど、門前町としてもかなり栄えたそうです。しかしその賑わいも現在では約1㎞南の藤沢駅周辺へと移ったこともあり、整備された道にちらほらと並ぶ小さな店に、往年をわずかに偲ばせるのみです。また藤沢宿は義経伝説が豊富で、京見附を過ぎて程なく左手奥の、「義経首洗い井戸」と伝わるそれも、そのひ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道52 馬入の渡し(馬入橋)→藤沢宿

2019-10-14 06:56:00 | 旧東海道
平塚の中心街を抜けると、馬入本町5あたりで国道1号に合流し、馬入橋を通って馬入川(相模川)を渡ります。かつては「馬入の渡し」という舟渡しがあったところで、隣を行く東海道線の鉄橋下を見ると、関東大震災で崩壊した旧橋脚が、現在も瓦礫となって残っているのがわかります。一方、この関東大震災によって中世の橋脚が土中から出現するといった例もあり、それが馬入橋から三十分ほど歩いた茅ヶ崎市下町屋一丁目、小出川のほ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道51 平塚宿

2019-10-13 08:35:00 | 旧東海道
化粧坂は頂上で東海道線の線路に分断されているため地下道を潜り抜け、その先にも松並木の道が、下り勾配に続いています。中世の大磯宿はここにあったとも云われ、前述の虎御前も、この化粧坂の白拍子でした。その虎御前が化粧水に汲んだと云う井戸を過ぎると旧道は国道1号線に合流、椀を伏せたような姿をした高麗山の東麓を進んで行きます。かつては“もろこしが原”という野原の一本道だったと云うここを過ぎて花水橋を渡り、間 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道50 大磯宿

2019-10-12 08:43:00 | 旧東海道
やがて前川地区に入り、天保三年に建立された大山道の道標を過ぎたあたりから、ゆるやかな上り坂になります。この坂を車坂と云い、藤原為家の母である阿仏尼や源実朝、太田道灌がこの場所を詠んだ和歌が、ここの案内板に出ています。十五分ほど歩いた橘地区で二宮町に入ったかと思うとすぐ小田原市、押切橋で再び二宮町と、境界が目まぐるしく変わるのは、細かく入り組んだ境界線のためです。さて、押切橋を渡ると旧道は右に分かれ . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道49 小田原宿→新田義貞首塚→国府津

2019-10-11 08:20:00 | 旧東海道
小田原宿は小田原城の城下町、やはりここを外すわけにはいかないでしょう。もともとは扇谷上杉氏の持ち城だったものが明応四年(1459年)に北条早雲の手に移り、以後“後北条氏”の居城として五代つづきますが、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉に攻められて降伏、氏政と氏照の兄弟は自刃しました。その二人のお墓は小田原駅東口の栄町2-7-8、“おしゃれ横丁商店街”という夜の飲食店が集まる路地の一角 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道48 小田原宿

2019-10-10 07:27:00 | 旧東海道
三枚橋を渡って突き当たりを右折すると、箱根登山鉄道線に沿って国道1号線を十分ほど進み、箱根新道の山崎ICあたりで左に分かれるのが旧道。五分ほどで一度国道に合流してから再び分岐、箱根登山鉄道線の踏切りを渡り、「入生田駅」を右手に過ぎて、山裾伝いの道を進みます。十分ほど行った風祭地区の道沿いには往年の杉並木と思しき杉が並んでいますが、道路側の幹や枝がきれいさっぱり払われたその姿は、現代アートのような不 . . . 本文を読む
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ニッポン徘徊──東海道47 箱根峠(東坂)→三枚橋

2019-10-09 07:26:00 | 旧東海道
西坂の“悪夢”を思い起こさせるような権現坂の急勾配をよじ上り、いくらかなだらかになったところで、「白水坂」という同じく急勾配を、今度は下って行きます。石畳の峠道はようやく下り坂になったわけですが、とにかく勾配がきついので、土の道では足に勢いがつき、かえって転げ落ちる危険があります。しかし、石畳の凸凹がちょうどよいブレーキの役割を果たしているのは、やはり昔の人の知恵であり、文化と言えるでしょう。峠道 . . . 本文を読む
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