落語芸術協会“新”会長の結婚発表に、「うひゃ~っ!」と叫びながら窓へ目を転じると、重い雨雲の去った空に、二重の虹が上ってゐた。遠あた場所では楽しくて、近ゐ場所ではなんだか大変だらけだった六月の、最後の一日の夕方になって、やっと明るい“知らせ”を見た気がする。今年の“後半”がはじまる七月は、夏のはじめでもある。いつまでも暑さに意地を張れる年齢(とし)でもなかりせば、そこを . . . 本文を読む
京浜急行の800形が、今月十九日をもってつひに引退した。登場からどんなに時間を経ても、つねに“新車”らしい雰囲気を失はない、昭和らしい個性に溢れた車両だったと思ふ。1500形はいかにも新型車じみたあざとい外観が嫌ひなので論外として、これで京浜急行の車両は総て、同じ顔だらけになってしまったわけだ。駅で、「どんな車両が来るかな……?」との楽しみは、現在(いま)どの鉄道からも喪はれつつある . . . 本文を読む
東急東横線の渋谷地底駅は現在も馴染めず、池袋の先まで線路をつなげたことには、現在も不要無用を確信しているものである。代官山駅と渋谷駅とを結んでゐた高架線跡には、代官山駅側には板張りの小洒落た店が並ぶ遊歩道を整備したが、店はありふれた業種が入ったために半分が潰れ、白けた雰囲気をいまに漂はす。渋谷寄りには東急資本による、これまた陳腐な商業施設や遊歩道をつくり、ところどころに高架線時代の面影を残してゐる . . . 本文を読む
……さうですか。2019年もそろそろ前半が終了ですか。前半の思ひ出?そりゃあなた、手猿楽師として、完全自作の「扇之的」を披露できたことですよ。さうです。「平家物語」にある、あの那須与一の話しです。現代手猿楽としては、初めて前後二場の形式をとりましてね。前場の主人公は那須与一、そして後場の主人公は扇を射落としてみよと舟から手招きした女房、といふところがミソでしてね。ひとつの出来事を、勝 . . . 本文を読む
日本新聞博物館ニュースパークにて、『戦争と戦後の掲示板 昭和初期の「写真ニュース」コレクション』展を見る。大きく伸ばした写真の片側に数行の簡潔な記事を添へた一枚刷りの「写真ニュース」は、子どものころ学校の廊下によく貼り出されてゐたのを読んだ記憶がある。現在も地下鉄の駅構内で見かけることがあるが、かうした報道方法が始まったのは大正末期から昭和十年代にかけてのことらしい。新聞では傳へきれなかった内容を . . . 本文を読む
富士山が、昨夏の台風の影響で山頂の一部が崩れ、山開きの日までの復旧は難しいと云ふ。人間たちの勝手な都合で「世界遺産」なるものに仕立て上げられ、すっかりそれに乗せられた有象無象が、山頂をめざして押し寄せて以来、混雑渋滞が目に余ると聞く。これ以上は来てくれるな──人間たちの築いた石垣が崩落して登山道を塞ひだ様は、富士におはす神様の意志そのものに、私には映ってならない。霊峰とは、誰もが簡単には近づけない . . . 本文を読む
今夏の黒川能「水焔の能」は、薪能としては珍しい曲が出るので、久し振りに観に行かふかどうしやうかと考へてゐるうち、22時22分に山形県沖を震源とする大きな地震が発生、黒川能が所在する山形県鶴岡市では、震度6弱を観測したと知る。ちゃうど旅行を考へてゐた、まさに場所で発生した自然災害に、偶然以上の怖さを覚へる。空を見上げれば綺麗な満月。しかしそれを綺麗に思へなかったのは、これで二度目だ。 . . . 本文を読む
横浜にぎわい座で、「第二回 かながわのお神楽公演」を観る。横浜市内の三社中と厚木市の一社中が、夏の風物詩を一足先はやくホール舞台で魅せる。かうした音響効果の良い屋内で観ると、やはり囃子の出来不出来が、お神楽の出来不出来を左右するものであることに気付かされる。そして、風に木の葉の揺れる音、昼には木陰で蝉が季節を唄へば、夕暮れには虫たちが草を枕に囁きを交はす──さうした自然のあらゆる聲も、実はお囃子の . . . 本文を読む
嵐悳江 「抽斗づくりといふ財産」(令和元年六月)子どもの頃に記憶した光景は、そのすべてが未来への貴重な財産だ。いまのうちに、いっぱい、いっぱい、見ておくべし。オトナになってからでは、記憶したくないものばかりを見ることになるによっての。 . . . 本文を読む
ラジオ番組にゲスト出演したキャスター氏が、若い女性アナウンサーの原稿読みを、「一回もトチッていませんね」と褒めてゐた。………トチらないのが、当たり前である。彼女のシゴトは正確な日本語を読み、喋ることである。このことは、これまでに何度も話してゐるが、ニッポン語をちゃんと読めないアナウンサーが多すぎる。しかもこの頃は、詰まっても詫びることなく、シレッとあとを続ける鉄面皮も多い。これでは、人前で可愛コぶ . . . 本文を読む
夕方の短い時間、雨が降る。さういふ季節とはいへ、よくよく雨の好きな空だと呆れながら茶を沸かすうちに、空が静かになる。そして、今年はじめて、自分の住む町で鶯の聲を聴く。それまであった土の上の樹木を伐り払ひ、けっきょく買ひ手のつかない陳腐な二階家を建てた埃臭い土方もやうやくこの町からゐなくなり、鶯も安心して戻って来てくれたのだらうか。私がこの町に住んでゐるのは、ただこの聲を聴きたいばかり。昨年よりひと . . . 本文を読む
あじさい──それは、雨が湿っぽく降り続くイヤな季節を象徴する花でしかなかった。しかし、年齢(とし)を食ふにつれて、この花の美しさに気が付くやうになった。花びらに雨滴を乗せた、その静かな美しさ。晴天の輝きの下で見る花ではない。憂鬱な雨の下で逢ふ、一服の清涼。きれいだな──さう感じて足を止めたところが、すなはち自分だけのあじさいの名所。この花がなければ、この國の梅雨はただの長雨時でしかない。そんな人間 . . . 本文を読む
座席の肘掛けはどちらのものか?──公共の場におけるこの問題は、すでに古典的議論となった観がある。いつであったか、ラジオを聴ひてゐて「へぇ……」と思ったのは、あれは本當は隣りとの“仕切り板”で、それでは見た目が悪ゐので肘掛けの形を借りてゐる、と云ふこと。肘掛けにあらず、じつは仕切り板!だから、間に一つしかないのか。その話しを聴ひて以来、私は隣りに人が座ってゐるときは、あれ . . . 本文を読む
このブログを本格的に始めた十年ほど前は、缶コーヒーは短命ながら個性的な“作品”がよく出てゐて、私もいろいろと賞味しながら記事のネタ取りをしてゐたものだった。さりながら。現在ではどのメーカーも、當今はやりの「他人(ひと)の猿マネ」で、微糖モノだらけ。私はああいふ化学的に制御された中途半端な味は嫌ひなので、近頃は三遊亭小圓朝師亡きあとは落語会の告知にあまり目がいかなくなったのと同様、缶コーヒーには目も . . . 本文を読む
五島美術館の「近代の日本画展」を見る。近代の日本画は西洋絵画を下敷きに再興されたもので、やまと絵のやうな純粋なる日本絵画と同一に並べることは出来ない。それでも松岡映丘のやうに、本當の原点を追究することに気が付き、日本古来の絵画へ新風を吹き込んだ画家もゐる。私が敬愛する“ごうとう慶太”こと五島慶太はさうした画家の優品も多く蒐集しており、今回はそのなかでも特に一級の作品が展示されてゐる。目当てだった松 . . . 本文を読む