僕がおや、と思っているうちに、熊橋老人が盆に湯呑みを載せて戻って来た。
僕は「ありがとうございます……」とお茶をいただきながら、
「熊橋さんは、この奉納歌舞伎に出られたことは?」
と訊ねてみた。
「ワシは、出ていないんですわ」
思いがけない答えが返ってきた。「ワシが子どもの頃言うたら、ちょうど太平洋戦争中やさかい、戦争中は、祭りはずっと中止やったんですわ……」
「それは……、失礼しまし . . . 本文を読む
相当に古い石の鳥居を出た先が、旧朝妻宿だった。
昔ながらの家並みがそのまま残る―
と言うと、木曽路の旧宿場のような、むかしの情緒たっぷりの光景を連想するかもしれない。
しかし旧朝妻宿のそれは、特に改築する必要もないままに時が過ぎ、その結果として当時の家屋が現代に残ったと云うだけの、古臭く寂れた集落にすぎなかった。
“過疎”
まず僕の頭に浮かんだ言葉が、それだった。
朝妻八幡宮の社殿が焼 . . . 本文を読む
朝妻八幡宮は文字通り、姫哭山の麓にあった。
境内が、そのまま姫哭山のへの登り口となっていた。
ところが、そのさほど広くない境内には、インターネットの写真で見たあの独特の社殿が、見当たらなかった。
その代わりに、薄汚れたプレハブ小屋が一棟、置かれているだけだった。
それが社殿らしいとわかったのは、正面に観音開きの格子戸が嵌められ、その前には申し訳程度の粗末な賽銭箱が据えてあったからだ。
え . . . 本文を読む
「書割、ですか?」
僕は再び訊き返した。
書割とは、舞台演劇の背景画をさす。
僕はもちろん、そういうものを手掛けたことはない。
第一、あれは芝居の大道具方の職分で、僕とは畑がちがう。
この老人、いきなり妙なことを言い出したものだ。
「いやぁ、ちょっとそういう方面は……」
僕は首を傾げてみせた。
絵なら全て一緒、などと考えられては困る。
「いや、書割いうても、そんな手の込んだもの . . . 本文を読む
僕は松から少しさがったところに腰を下ろして、スケッチブックをひらいた。
時代(とき)は戦国の世、朝妻氏が守る山城に、一本だけそびえる松―
それを縁側に立って眺める、一人の美しい姫君―
やがて織田信長の軍勢に攻められて炎上する城、そして庭の松の下で、まさに短刀で喉を突こうとしている白装束の姫君―
すべてが焼け落ちて荒涼たる景色のなか、一本だけ、そのままの姿をとどめる松―
それは時が移った現 . . . 本文を読む
その好奇心に背中を押されるまま、僕が旧朝妻宿に向かったのは九月二十三日―祭礼の一週間前のことだった。
東京から特急列車で西へ西へと約六時間、途中で単線のローカル線に乗り換える。
国鉄時代の遺物にカラフルな塗装を施したポンコツディーゼルカーに揺られること約一時間、最寄りの葛原(かどはら)駅に着いた時、夕焼け空には夜闇が迫っていた。
真新しい駅舎の外には、綺麗に整備されたちょっとした地方都市が広 . . . 本文を読む
嵐昇菊という歌舞伎役者は、たしかに五代目まで存在していた。
三代目までは上方、すなわち関西の歌舞伎役者で、四代目、すなわち金澤あかりの祖父の代に、東京へ出てきた。
しかし、上方の芸風が東京の水に合わなかったこともあって人気が出ず、失意のうちに病没してから名門“緒室屋”は低迷し、五代目、すなわち金澤あかりの父の代でついに廃業、名門“緒室屋”の芸脈は断絶する―
すべて、彼女の話しの通りだ。
さ . . . 本文を読む
「あ、そうだ……。近江さん、よろしければ連絡先を交換しませんか?」
仕事ではない場面で、自分からそう申し出た女性は、彼女が初めてだった。
いちおう僕は、仕事用に使っている番号の方で、交換した。
「もっとも、あのショッピングモールへ行けば、またお会いすることがあるかもしれませんね」
僕はそう言いながら、金澤あかりから届いたアドレスを登録していると、
「その警備員なんですが……」
と、彼女 . . . 本文を読む
「ちなみに金澤さんは、その農村歌舞伎に出られたことは……?」
僕は彼女の瞳(め)をさりげなく注視しつつ、訊ねた。
「十三歳のときに、一度だけ……」
金澤あかりはそう答えて、口許だけで笑ってみせた。
そしてわずかに目線を伏せたきり、あとを続けようとしなかった。
あまり触れたくない―
そう言いたいように見えた。
目線を伏せたのは、心の内を読まれたくなかったからかもしれない。
しかし彼女 . . . 本文を読む
嵐昇菊(あらし しょうぎく)―
それが、父までの代々が名乗っていた歌舞伎役者の芸名でした、と金澤あかりは続けた。
「もともとは、“緒室屋(おむろや)”という屋号を持つ、名門だったらしいのですが……」
金澤あかりの祖父の代で家運は傾きだして―
「父が五代目を継いだときにはすっかり零落していて、役も思うように付かなくなっていたそうです。それで父は芝居に対する意欲を失って……」
三十五歳の若さ . . . 本文を読む
国立演芸場の演芸資料展示室で、「魔術の女王 松旭斎天勝」展を見る。
いかに彼女が天才奇術師であっても、天性の“美貌”がなければ、後世に名を残すことはなかったであらう。
また、ニセモノが続出することもなかった……、かもしれない。
つまり、
美貌そのものが、
世間を惑わすマジックなのだ。 . . . 本文を読む
暴漢は中部地方出身の三十歳、「仕事を馘首(クビ)になりムシャクシャしてやった」と警察に話したと云うことを、僕はニュースで知った。
しかも、体内からは微量の大麻が検出されたとかで、僕は改めてゾッとさせられた。
知らなかったとはいえ、そんな危険すぎる男に、よくも立ち向ったものだ。
そして、あの若い女性警備員も……。
僕は、自分とたいして年齢(とし)の違わない男が、あのような事件を起こしたことに . . . 本文を読む
驚いて振り返った僕は、慄然とした。
ついさっきまで寝そべっていたあの浮浪者風の男が、刃物を振り回して暴れていたのだ。
床には、年配の警備員が、血潮のなかに倒れていた。
悲鳴をあげて逃げ惑う客たち。
昼下がりのエントランスは、いっぺんに地獄風景と化した。
男は相変わらず獣のような咆哮をあげながら、今度は目の前にいる女性警備員に襲いかかろうとしていた。
危ない……!
僕はそう叫ぼう . . . 本文を読む
いまの僕の楽しみは、自宅の最寄り駅のそばにオープンした大型ショッピングモールまで、散歩することだ。
だからといって、僕を暇人などと思われては困る。
僕の名前は近江章彦―大和絵を家業としていた公家、近江中納言家の末裔で、かつての家業をそのまま自分の職業にしている、“大和絵師”だ。
中学生のときに自分の“血筋”を強く意識するようになり、先祖の仕事は僕が受け継いで発展させる―!
と心に誓って、は . . . 本文を読む