横浜みなと博物館で、「海難と救助―信仰からSOSへ―」展を見る。
どんなに技術が進歩しても、完全には防げないものが、船舶の海難事故だ。
それは言ふまでもなく、自然を相手にしてゐるからに他ならない。
人類が船で海へと乗り出す限り、自然との闘ひはつづく。
わたしも子どもの頃、海水浴で乗ってゐたゴムボートが高波でひっくり返り、海中に放り出された経験がある。
そのときに見た海水の濁った色を、 . . . 本文を読む
横浜にぎわい座で、金原亭馬生一門ほかによる“鹿芝居”を観る。
噺家(はなしか)が演じるから“しかしばい”=鹿芝居と云うこの寄席芸は、古くから行われてきた江戸文化のひとつ。
今回の狂言は「らくだ」。
原典の落語や歌舞伎芝居版の台本からは自由に離れた、歌あり、踊りあり、ダンスあり(!)の遊び心あふれた時間にゆったり浸かる。
タイトルロールの“らくだ”は、黄色く変色した(!)死体。
その死体 . . . 本文を読む
国立公文書館の「漂流ものがたり」展を見る。
鎖国をしてゐた江戸時代、船が難破して漂流し、異国や無人島に漂着した人々、また逆に日本に漂着した異国人や物を、見聞録を通して紹介した企画展。
漂着した無人島で、以前に漂着した日本人と邂逅する例があったことを、初めて知る。
日本本土に生還できる望みの薄いなか、“大鳥”(アホウドリのことらしい)を捕らへて食糧とするなど、太古の昔に返ったやうな過酷な生活 . . . 本文を読む
雨と強風の天気予報なれど、豆州河津町へ今年も河津桜を見に行く。
着いて間もなく雨は降り出せど、やがて止み間があって風にも大して悩まされず、まずは春のさきがけを楽しむ。
今年は咲き始めが早かったので、今日あたりは既に葉桜かと思ってゐたが、どうやら間に合った。
天城峠を、リュックを背負って一人で歩いて越えてゐる初老男性を見かけた。
旅には、いろいろなスタイルがあってよい。
一人で越え . . . 本文を読む
実家の町内会が主催した文化展にて、「駿河天人」と昨秋に披露した「猩々」の二曲を舞ふ。
「駿河天人」は“羽衣伝説”をもとにデザインしたもので、今回が初披露。
舞台にのせたらどんな感じになるかを掴むため、着物に袴姿といった、“素”の形をとる。
二度目となる「猩々」は、前回に舞ってわかったことをもとに、型のほか装束にもさらなるアレンジを加へてのせる。
実家とご近所の協力もあって、予 . . . 本文を読む
水道橋の能楽堂で、宝生流の「兼平」を観る。
先日の旧中山道探訪の際に訪ねた、今井四郎兼平の墓を思ひ出しながら、粟津合戦を語るシテの姿に観入る。
生と死が常に紙一重だったこの時代、命を絶つことで名を末代まで残す行為は、生きてゐるうちに名声に求めて簡単に目を眩まされる現代人には、到底理解の外だらう。
いつであったか、やたらと「命懸け」を口にする男がゐた。
彼はどうやら、その言葉の響きに、 . . . 本文を読む
日中は暖かだったその時間帯に、箱根湯本を訪ねる。
箱根登山鉄道の老兵を右に見ながら、
人の足元を見たやうな土産物屋街を抜け、昭和8年に完成した国の重文「旭橋」を渡り、
早川に沿ってしばらく行くと、今は通行止めになったやはり国の重文、「函嶺洞門」が。
工事中の昭和5年に発生した地震で現場が崩れる災難に見舞われながらも、翌6年に開通したこの洞門に、
わたしは箱根の峠越えと云 . . . 本文を読む
石部宿を出発し、次の水口宿までの三里半(約13.7㎞)の間には、家棟川、由良谷川、大沙川と、天井川の隧道が三ヶ所ありました。
上の写真はそのうちの、由良谷川の隧道です(家棟川の隧道は、近年の河川切り下げ工事により、撤去されています)。
「家屋より高いところを流れる自然の川とは、どんなだろう……?」
と、草津宿のそれを見て以来気になっていたわたしは、傍らの土手から隧道の上へと上がってみました . . . 本文を読む
江戸日本橋から京三條大橋までは中山道を通ったので、帰りは旧東海道を歩いて、江戸日本橋を目指すことにします。
京三條大橋から草津宿までについては、往路の旧中山道探訪ですでに見たので、お話しは草津宿本陣前の分岐点より、始めることにします。
草津宿を出発すると、しばらくは天井川の旧草津川土手に沿って進み、東海道新幹線の高架をくぐって立場(休憩所)がおかれていた岡地区を過ぎ、一里塚があった目川地 . . . 本文を読む
今は石碑のみの大津本陣跡を過ぎ、さらに坂を上ると右手には、京阪電車京津線の踏切越しに「蝉丸神社・下社」が見えます(上段写真)。
蝉丸とは、盲目の琵琶法師の名前。
世阿弥作の同名の謡曲では、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子で、盲目に生まれたため逢坂山に棄てられたとなっていますが、「今昔物語」では、宇多法皇の皇子である敦実親王の“雑色(ぞうしき、無位の雑役夫のこと)”となっています。
その敦実親王の . . . 本文を読む
伯母川にかかる立木橋を渡って草津宿を抜けると、かつての立場(休憩所)で草津名物“姥ヶ餅”が売られていた矢倉地区を通り、矢倉南信号で国道1号線を渡った先には、「野路一里塚跡」の碑が、小公園として整備されたなかに立っています(上段写真)。
この先の野路地区は、中世には宿駅がおかれていたところで、
家並みにそれらしい風情があります。
また、現在では失われた「日本六玉川」の一つ、“野路の玉川” . . . 本文を読む
「綣(へそ)」という、謂れは不詳の珍しい地名の地区を過ぎ、葉山川を渡ってしばらくすると、左へゆるやかにカーブして草津宿へ入るのがかつての道筋でしたが、その部分は東海道本線の線路で消滅しているため、付近の暗渠をくぐり抜け、すぐ線路に沿って曲がって進みます。
その先で陸橋をくぐり、渋川町に入ると、時代の新旧が混在したなかにも、
旧宿場の雰囲気が漂いはじめます。
JR草津駅前にあたる大路 . . . 本文を読む
武佐宿をたってしばらくすると、国道8号線に合流。
千僧供(せんぞく)町では、後鳥羽上皇の怒りに触れて打ち首になった法然上人の弟子の首を洗ったと云う「住蓮坊首洗池」―但し現在は渇れ池―、田んぼのなかに一里塚そっくりな姿を見せる「千僧供古墳群・供養塚古墳」を見て過ぎ、馬渕町から右手へ分かれる旧道へと入り、東横関町の田んぼのなかを、直進します(上段写真)。
やがて横関川(日野川)の堤に行き当たり、 . . . 本文を読む
古い家並みが続く老蘇地区を抜けると、ちょっと寄り道することにして、亀川交差点を右折、安土街道を上って行きます。
道なりに歩くこと約20分、やがて右手に、こんもりとした杉木立が見えてきます。
近江源氏の祖である宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王を祀った「沙沙貴神社」の森です。
この神社を訪ねることも、今回の中山道近江路を歩く目的の一つ。
それは、わたしが伝統芸能家の道を志すきっかけとなっ . . . 本文を読む
次の愛知川宿までの二里(約8㎞)の道は大きなカーブもなく、ほぼまっすぐに続いています。
無賃橋を渡って住宅が集まる法士(ほうぜ)町を過ぎ、かつてはつづらが生産されていたと云う、その名も葛籠(つづら)町に入ると、わずかばかりの松並木が(上段写真)。
それを通して望む近江平野に、「見たかった景色にやっと出逢えた……」と、しばし足を留めました。
そして出町、四十九院と過ぎ、かつて立場(休憩所 . . . 本文を読む