以前からその存在は知ってゐた「大山能狂言」の奉納を観に、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社へ。
江戸時代に観世座の猿楽師が紀州からやって来て、この地に伝へたのが始まりといふ大山能狂言は、現在も玄人の能楽師の指導をうけながら、地元の人々によって守り継がれてゐる。
この神社の能舞台はこれまでにも何度か訪れてゐるが、いつも決まって雨模様であるあたり、
さすが雨降りの神様なり。
18時 . . . 本文を読む
横浜歴史博物館のエントランスロビーで開催中の企画展、「田園都市沿線いま昔」を見る。
田園都市線の溝の口〜長津田間が開通して今年で50年となるが、わたしが初めて一人暮しを始めたのも、この沿線の町においてだった。
親許にいた頃は遠い都会だった渋谷が、二十分ちょっとで簡単に行けるようになり、生活がなにやらとても進歩的に感じられたものだった。
そしてその町から毎朝、殺人的混雑の田園都市線に乗って、国 . . . 本文を読む
昨年の夏よりFMラジオ局“NACK5”の番組で聴き親しんでいる三遊亭鬼丸師の落語を初めて聴きに、内幸町ホールの独演会へ行く。
演題は「鰻の幇間」と「千両みかん」の二席。
軽快な語り口のなかに、細部にわたって神経がよく行き届いた、本格派の古典落語。
じっくり聞かせるところも、重くならないのが腕。
あの木戸銭で、
あれだけの本格落語を楽しませてくれるなら、
また行こう。 . . . 本文を読む
東京都江東区亀戸三丁目の亀戸天神にて、岩楯美よ志社中の“薪神楽”を見る。
演目は天神様に因んだ創作神楽、「天神」。
二心ありとの疑いで太宰府へ左遷された菅原道真は、やがて無実と判って帰洛が叶う―といふ筋。
史実もその通りだったら、この世に“天神様”は存在していなかったかもしれない。
なんであれ菅相丞の悲劇は、学者といふ現実世界から隔絶された空間でどうでもいいことを宣ひつつ . . . 本文を読む
終戦記念日の晩、新潟県村上市、かつての“朝日村”にて、大須戸能を観る。
本来なら薪能として催される予定だったが、天候不順のため、村上市総合文化会館の大ホールに会場を移しての演能。
今年は三十回を記念して、大須戸能の“師匠筋”である黒川能の役者(下座)たちが特別参加、
番組のはじめに誇りと気迫に満ちた舞囃子「高砂」を披露して、花を添える。
今回たのしみにしていたのが、能の代表曲 . . . 本文を読む
茅ヶ崎市民文化会館の大ホールで、
『国立劇場おきなわ県外公演 組踊「執心鐘入」と琉球舞踊』
を観る。
琉球舞踊はそもそも、沖縄が“琉球王国”であった時代、中国からの使者である「冊封使(さくほうし)」を歓待するために創作された宮廷舞踊であった。
明治12年(1879年)の廃藩置県で琉球王国が消滅すると、それまで王府の庇護を受けてゐた踊り手たちは市井の芝居小屋に活路を見出だし、庶民の風俗を取 . . . 本文を読む
歩いて三十分ほどの隣町にある八幡神社にて、横越社中の土師流里神楽を見る。
正午頃に「禊祓(みそぎはらひ)」で始まった時は、暑すぎることもあって境内はまばら。
この曲は前半に、伊邪那岐命(いざなみのみこと)が黄泉の国で穢れた体を水で清める場面がある。
『神社へ参拝する前の嗽手水の作法は、ここから始まった』との解説には、なるほど、と納得。
暑いを通り越して“熱ひ”気温に、一度帰宅し . . . 本文を読む
岩手県の盛岡で暮らすいとこと、その子どもたちに十数年ぶりの再会を果たしたあと、帰りの列車の時間までの間、盛岡城跡を訪ねる。
本丸跡に残る台座の上にはかつて、南部家42代当主南部利祥(なんぶ としなが)中尉の馬上姿を象った銅像があったと云う。
明治37年、日露戦争に参加した南部利祥中尉は翌38年、竹田宮恒久王を守って楯となり、戦死したと伝えられている。
銅像はそれから3年後の明治41年9 . . . 本文を読む
旧道は藤下の先で国道21号線を渡ると、江戸時代には立場(休憩所)がおかれていた中山という集落へと入ります(上段写真)。
江戸時代以前には宿駅がおかれていたと云うこの集落は、現在は東海道本線と東海道新幹線、そして旧中山道と、新旧三種の交通が交差している地点となっています。
山中集落の外れで「“伝”常盤御前の墓」を右に見て過ぎると、道はやがて東海道本線に沿って上り坂となり、今須峠へと入ります。
. . . 本文を読む
野上を過ぎると、桃配山(ももくばりやま)の松並木を経て国道21号線に合流、関ヶ原宿を目指します。
このあたりは“天下分け目の戦”に参戦した武将たちの陣跡が散在していますが、それらについてはすでに戦国マニアたちがいろいろと語っていることでしょうから、わたしは構わずスタスタ歩いて、関ヶ原宿へと入ります。
かつての宿場は、東海道本線の関ヶ原駅前がそれに当たりますが、
↑写真右手に本陣跡、その . . . 本文を読む
西濃鉄道の廃線跡を過ぎ、そのむかし善光寺へ仏像を運ぶ一行がここで昼飯をとったことからその地名がついた云う「昼飯(ひるい)」地区を過ぎると、中世に宿駅がおかれていた「青墓(あおはか)」にさしかかります。
家並みにかつての雰囲気を感じるこの地では、今を去ること1159年、平治の乱に敗れた源義朝の次男で頼朝の兄にあたる源朝長は、ここ青墓宿の遊女屋に深夜駆け込み、膝に負った重傷にもはやこれまでと、十 . . . 本文を読む
やがて瑞穂市の行政機関を右手に見て長護寺川を渡り、田んぼのなかをまっすぐに伸びる道を行くと、揖斐川のほとりに出ます(上段写真)。
しかしこれは、大正14年(1925年)の河川付替え工事によって出来た流れで、本来の揖斐川はそこから少し西、皇女和宮ゆかりの「小簾紅園」脇を流れる現在の呂久(ろく)川が、
それに当たります。
現在でこそ用水路のような細い流れですが、かつては90㍍もの川幅があり、 . . . 本文を読む
次の美江寺宿までの一里七町は、かつては田んぼが広がるなかを行くのんびりした道中であったことが想像されます。
しかし現在は、住宅が建ち並ぶなかを行く生活道路となっており、古えの風情は代官所があった本田(ほんでん)地区以外に、まずありません(上段写真)。
五六(ごろく)川にかかる五六橋を渡った先には、
『左右とも畑なり。山遠くして見えず。松並木をゆくこと長し』
と古えの道中記にあるような景色 . . . 本文を読む
加納宿(岐阜)まで歩いた旧中山道、久しぶりにその先を歩いてみます。
江戸より106番目の「三里一里塚」跡を左手の住宅地のなかに見て過ぎ、その先でJR線の高架下を桝形(上段写真)に通って、宿場を抜けます。
そして本荘町、鏡島(かがしま)と、現在は両側に住宅が続くなかを、蛇行しながらしばらく進みます。
そして論田川にかかる船橋を渡って岐阜道との追分を過ぎ、さらに二十分ほど行くと、鵜飼いで有名 . . . 本文を読む
福岡市街地には、鎌倉時代の「元冦」に備えて築かれた石築地、いわゆる“元冦防塁”が、現在も部分的に遺されてゐる。
上の写真は西南学院大学の裏手(早良区西新7-4)に遺るもの。
築地の上部が地表と同じ高さなのは、元冦の脅威が去ったのち、海風が運ぶ砂によって徐々に埋もれたためだ。
つまり、鎌倉時代のこの辺りは、土地がもっと低かったといふことになる。
実際、西新の東隣となる中央区地行3丁目、現在で . . . 本文を読む