矢来能楽堂で、金春流の「高砂」を観る。
「遠く離れていても、心が通いあっていれば、夫婦は永遠である」-この目出度い曲は、夫婦愛について、そう謡う。
ある老夫婦は、夫婦円満の秘訣について、こう答えた。
「そりぁ、“忍耐”です」
また、ある既婚男性は私に、こう答えた。
「女房の尻に、黙って敷かれていることさ」
理想は、実現できないところに、値打ちがある。 . . . 本文を読む
三井記念美術館の特別展、「河鍋暁斎の能・狂言画」展を見に行く。
正統の狩野派を学び、幕末から明治にかけての画壇で奇才ぶりを発揮した河鍋暁斎は、実は大藏流家元から免許皆伝された正統派の狂言師でもあったことを、今回初めて知る。
そう思って見てみると、確かにどの作品も、能や狂言の薫りが舞台目線で表現されていることに気が付く。
その的確な風合いはまさに、自身の舞台経験に裏打ちされたものなのだ。 . . . 本文を読む
国立能楽堂の定例公演を観に出かける。
ところが、舞台を眺めているうち、自分はいったい何を見ているのか、わからなくなってしまった。
終演後、ロビーへ出てからチラシを見て、「そうだったのか…」と思った。
どうやらわたしは、「藤」と云うのを見ていたらしい。 . . . 本文を読む
国立能楽堂で、金春流の「邯鄲」を観る。
五十年の栄華も、現実には粟飯が炊き上がるまでの、わずかな間の夢。
心理学者の宮城音弥氏が、人の夢を見る速度は現実の時間進行にくらべて速いということを、著者「夢」(岩波新書)のなかで述べていたのを思い出した。
今は昔、私もシテの盧生のように、
“自分とはなにか?”
“そしていかに生きるべきか?”-
といったことを本気で考え、悩んでいた時期 . . . 本文を読む