初めて気が付く風景。
いつも通っている道なのに、映らなかった風景。
なぜか。
ふだんは、浮世の事で頭がいっぱいだから。
良くもない事で、
心がいっぱいだから。 . . . 本文を読む
国立能楽堂で金春流の「恋重荷」、そして「道成寺」を観る。
どちらも、“恋”に惑乱したあげく破滅する人間悲劇。
恋と恨みは、つねに紙一重。
どんな賢者も、この魔力の前には、たちまちにして愚者となり果てる。
打ち勝つ術など、ありはしない。
世の中、これほど愚かな恐怖はない。 . . . 本文を読む
鶴見線の鶴見駅~国道駅間には、昭和17年に廃止となった「本山停留所(ほんざんていりゅうじょ)」駅の跡が、70年を経た現在ものこされています。
開業が昭和5年だったそうですから、駅として機能していたのは、わずか12年間。
廃止され、放置状態になってからの時間のほうが長いわけで、半世紀以上もたっているとなると、もうほとんど文化財モノであります。
その本山停留所駅跡の斜め下には、今年の四月に全面 . . . 本文を読む
桝形の名残りとも思えるような二段カーブを通った先が、下諏訪宿から3里の塩尻宿。
上段写真の左手が本陣跡で、その隣りには脇本陣がありましたが、明治時代に火事で焼失し、現在は石碑が建つのみの空地となっています。
さらに隣りの旧陣屋は類焼をまぬがれたようで、現在は酒屋として、
その偉容をいまに伝えています。
いまもその面影をはっきりと遺している桝形を通ったところで、
旧中山道探訪は . . . 本文を読む
やがて旧道は一度国道にぶつかると、すぐに再び逸れて柿沢地区へと下って行きます。
旧い民家が坂の両側に続く柿沢地区を下った先、縁並橋の袂で国道に合流し、橋を渡れば塩尻宿の入口。
その手前には、男女が抱き合っているなかなか大胆な構図の双体道祖神が建っていて、びっくりさせられます。
これは“お女郎道祖神”とも云われているそうで、なるほど、と納得。
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下りはじめると間もなく左手には、そのむかし和宮様も立ち寄られたと云う「旧峰の茶屋本陣」が(上段写真)。
しかし、現在内部は非公開。
この峠道には、岡谷に住む好きな男に逢うため、女が夜をも厭わず通ったと云う「夜通道(よつうみち)」の伝説があるとやら。
恋の情念は何ものをも勝ることを思いながら、熊除けに謡を大音声でうたっているうちに(ああ、都会は声の出せる場所が乏しいことよ!)、左手に「東山一 . . . 本文を読む
峠道に入って間もなく石舟(いわふね)観音を過ぎると、左の道端には円形の巨石が(上段写真)。
これは江戸時代の道中記にもその名が記されている「大石」で、かつてはこの陰に追いはぎが隠れて、旅人を狙っていたとか。
峠道のあまりもの急勾配に、
草むらに落ちていた折れ枝を杖の代わりに息を切らせて上ること約30分、ようやく塩尻峠の頂上に到達。
ここからは一気に下り坂となります。
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二カ所目の路地を抜けると、ようやく普通の道幅となります。
その先の十四瀬川に架かる橋は、近年になって復元されたもの(上段写真)。
橋を渡って長地地区に入ったあたりから、だんだんと旧街道らしい風情となり、
横川を渡って今井地区に入ると、右手にはかつて明治天皇が全国行幸の際に小休止をとったと云う旧茶屋本陣今井家が、
当時のままの佇まいを現在に伝えています。
ここを過ぎると、道はい . . . 本文を読む
甲州道中を経て下諏訪宿で中山道に合流したところで、この宿場で中断したままになっている旧中山道探訪、まずは次の塩尻宿まで歩いてみることにします。
旧下諏訪宿の外れ、友の町5368で国道142号線から左へ分かれると(上段写真)、しばらく住宅地のなかを進みますが、砥川の手前で突然、
↑のように細い路地となってしまいます。
もちろん、江戸時代からこうであったわけではなく、後世になって沿道に家 . . . 本文を読む
諏訪湖を一望してから再び歩き始めて約20分、両側に民家が建ち並ぶ右手に、甲州道中最後の一里塚、53里目の一里塚跡が(上段写真)。
ここまで来れば、中山道との合流地点である終点の下諏訪宿は目前。
長かった甲州道中探訪も、あとわずか。
承知川橋を渡ると道はやがて右へカーブ、その先には諏訪大社の御門前が見えてきます。
御門前を過ぎ、鈎の手に通ったところで、向こうからやって来た中山道と出会 . . . 本文を読む
桝形跡を通って上諏訪宿を過ぎると、再び長閑な旧道風情が戻り、ほどなく52里目の一里塚跡を通り(上段写真左手)、湯の脇地区で坂を上ると、旧道は終点の下諏訪宿まで、民家の間をぬって進みます。
やがて高木地区に入ると、左手にはいにしえを現在(いま)にそのまま伝える茶屋本陣「政屋(橋本屋)」が。
軒先に突き出すように掲げられた灯かりが、目をひきます。
政屋を過ぎると間もなく左手の視界が . . . 本文を読む
一里塚跡から20分ほど行った武津地区には、男女が手を握り合う姿の双体道祖神が(上段写真)。
茅野の外れで見たものといい、このあたりの道祖神は男女の“愛”をおおらかに謳ったものが多く見受けられます。
旧道はさらに10分ほど行った赤羽根地区で国道20号線に合流。
ゆるい左カーブを過ぎると、ちらほらと造り酒屋が目につくようになり、“鍵之手信号”の名称がズバリそれを示している桝形跡を通ると、
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宮川地区で国道から分かれて中央本線の茅野駅前を過ぎ、上原信号で再び国道20号線に合流してしばらく行った道端に、男女が頬を寄せ合う珍しい姿の双体道祖神が(上段写真)。
微笑ましいものを感じながらさらに10分ほど行ったところで、「渋沢小路」と呼ばれる道へ右折。
中央本線のガードをくぐり抜けると左カーブの上り坂となり、旧道は神戸地区の住宅地へと入って行きます。
やがて左手には、51里目の一 . . . 本文を読む
金沢宿をあとにして20分。
49里目の一里塚跡を示す石碑が、国道沿いを流れる宮川の向こうの薮の中(上段写真)にあるとのことですが、まさかあの中へ入っていく勇気はなかったので、国道からチラ見して、ここにかつて一里塚があったのだということを確認するにとどめて、先を急ぎます。
10分ほど行った木舟地区で中央本線の跨線橋を渡って線路の東側に出ると、そこから伸びる旧道を15分ほど行きます。
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重修一里塚から30分ほど行ったところで丘を下って国道20号線の現道に合流、右手の向こうに中央本線の「すずらんの里駅」を見ながら神戸地区を通り、神戸582あたりで左へ分かれる上り坂が旧道。
坂を上りきったあたりの木立のなかには、江戸から48里目、甲州道中に現存する一里塚としては最後となる「御射山神戸一里塚」が、東西そろってきれいな姿で残されています(上段写真)。
地元の人々の生活道路となってい . . . 本文を読む