覗を過ぎると、石ころは姿を消すので急坂でもいくらか歩きやすくなり、その昔弘法大師空海が掘り当てたと云う井戸、“弘法の井戸”の脇を上がると-冷たい水が現在も満々と湛えられていました-、一気に道は平坦になります。
その右手の草むらに残されている石垣は(上段写真)、かつて四軒の茶屋があった“立場(たてば)”の跡。
力餅や、わらび餅が名物だったそうで、ここに人が確かに存在していた在りし日に、思いを馳せ . . . 本文を読む
上州サイドから入る碓氷峠道は、“はね石坂”↑と言う、石がゴロゴロしたけっこうキツイ急坂から始まり、いきなり峠越えの洗礼を受ける感じ。
道幅も人が一人通れる程度にまで狭まり、明治に入って新道や鉄道が開通して交通量が激減し寂れた結果とは言え、これが京と江戸を結ぶ幹線道路なのかと、けっこうショッキングなものがあります。
時には↓のような、
どこが道なのか分からない、殆ど斜面のような箇所もありま . . . 本文を読む
JR信越線の横川駅の前を過ぎ、現在もその子孫の方が住む茶屋本陣を過ぎてしばらく行った先の右手に、「碓氷関所」跡が↑。
石段を上がったところに見える門は東門と云い、かつては街道の東寄り、つまり撮影地点より後方の場所に実際にあったもので、昭和35年に東大教授の手によって、現在の場所に移築復元されたもの。
碓氷関所の歴史はとても古く、醍醐天皇の御代899年(昌泰2年)に、群盗を取り締まるため碓氷山中 . . . 本文を読む
松井田宿を過ぎて、新堀地区で左へ折れてしばらく行くと、JR信越線の踏切に行き当たり、正面には妙義山が、いよいよはっきりと姿を見せます↑。
かつて旧道は、この製糸踏切を越えた先で坂を下り、碓氷川に沿って次の五料地区に入っていたようですが道が現存せず、しかし川のほとりの田んぼの中に、その名残りと思えなくもない細道はあったものの、真偽の判断がつきかねたので、資料が示す他の道筋に素直に従って、碓氷の関所 . . . 本文を読む
国立劇場の小劇場で、学生の時からずっとファンの、芳村伊四郎さんの長唄を聴いてきました。
今回の演奏会はお弟子さんたちの発表会がメインのため、伊四郎さんは脇に回ってフォローする役回りでしたが、一門の方の三味線でタテをつとめた「時雨西行」は、さすがじっくりと耳を傾けるべきものがありました。
伊四郎さんの唄声は、明治36年2月にガイスバーグがレコードに収めた六代目芳村伊十郎の唄声に、どこか似ているよ . . . 本文を読む
間の宿でもあった原市を過ぎ、簗瀬では部活帰りらしい地元の男子中学生が小さな声で「こんにちは」と挨拶をしながらすれ違い、郷原の手前で一度旧中山道を離れて、磯部温泉郷へ寄り道。
ここでお目当ての「足湯」(\0)↑に浸かってしばらく休憩してから、旧中山道に戻って再び次の松井田宿を目指します。
郷原地区↓まで来ると、
碓氷の山々に接近していることを更に実感、ひんやりとした空気となだらかな上り坂 . . . 本文を読む
安中宿は細長い高台の上に、ほぼ真っ直ぐに伸びるなだらかな坂道に整備された旅籠数17軒の小さな宿場で、幕末までの長きにわたって飯盛女(下級遊女)を置くことが認可されなかったこともあり、当時はかなり寂れていたそう。
安中宿を抜けると、隣りの原市地区にかけて、当時は日光街道の杉並木と並ぶ名所だったと云う安中杉並木となりますが、肝心の杉が戦後、時代の流れで枯死したために原市地区を除いて全て伐採され、現 . . . 本文を読む
板鼻宿を出るとすぐに碓氷川に差し掛かります。
ここにはかつて「碓氷川の渡し」があり、1747年(延享4年)に酒井雅楽頭が仮橋を架けるまでは徒渡(かちわた)り―肩車或いは蓮台に乗って川を渡ること―のみの通行だったそうで、現在の鷹之巣橋のすぐ右側が、当時の道筋です↑。
国道が開通して現在の位置に鷹之巣橋が架けられるまでは、旧中山道に橋が架かっていたらしく、旧道筋に当時のものと思われる赤煉瓦の橋桁が . . . 本文を読む
上豊岡町で国道18号線に合流すると、群馬県に唯一残る一里塚が左手に見えてきます↑。
資料によれば東西に残っていることになっているのですが、東側は後年、国道の拡幅工事で取り壊されたようで、現在では跡地に側面をコンクリートで固めた盛り土の上に浅間神社の祠が建っています。
上藤塚で左手に八幡宮参道の起点に建つ朱塗りの大鳥居を見、その先で古い石碑がそこになければ間違いなく素通りしたであろう「かねつ橋」 . . . 本文を読む
高崎宿は松平右京亮八万二千石の城下町、本陣脇本陣共に置かない宿場でしたが、一時、中心地の連雀町↑に本陣を置いたことがあるそうです。
連雀町とは、全国から連尺を背負って集まって来た行商人たちが、ここで商いをしたことに因んで付けられた町名。
かつてはかなり賑わった様子の高崎も、現在では人も交通量もまばらで、元気があるとは言い難い雰囲気。
連雀町の先、本町三丁目で左折し、本町一丁目の渋川街道と . . . 本文を読む
倉賀野宿を出ると左に浅間山古墳を見ながら歩き、倉賀野市上正六で右折して旧中山道を一旦離れ、三ヶ所の興味ある史跡が集まっている烏川沿いの佐野と云う地区を目指します。
歩くこと約10分、現在では鳥居の目の前を東北新幹線の高架が走るという、古えでは考えられない場所に、藤原定家を祀る「定家神社」はあります(写真上)。
この神社には、“定家流”の書体で書かれていることから本人自筆と伝えられている「在原 . . . 本文を読む
立石新田から烏川に沿った道を進むうち、市内循環バス「中島」バス停から28歩のところで右折、知らない人にとっては何の変哲もない、しかし確かに由緒ある道を100メートル程行くと、再び烏川の堤に行き当たります。
この堤を越えたところが、中山道二ヶ所目の渡し場、「柳瀬川の渡し」です。
川の名称は正しくは“烏川”なのですが、ここの箇所だけは何故か“柳瀬川”と呼んでいたようです。
ここは江戸中期まで渡し . . . 本文を読む
夏の間はお休みしていた旧中山道探訪、ようやく過ごしやすい陽気になってきたところで再開です。
埼玉県の次は、お隣り群馬県の旧中山道を辿ってみます。
神流川を渡ると再び国道17号線から分かれて、約1キロで上州(群馬県)最初の宿場、「新町宿」に入ります(写真上)。
ここが宿場として整備されたのは承応2年(1653年)と遅く、それまでは本庄宿を出たあと、途中から後年とは違う道筋を通って、次の倉賀 . . . 本文を読む
三遊亭小圓朝さんのリサイタル、「第19回 武蔵野 小圓朝の会」を聴きに、JR三鷹駅前の武蔵野市立武蔵野芸能劇場へ。
一席目は黒の羽織袴姿という正装で、「八五郎出世」。
八五郎が“お鶴の方様”となった妹を見てホロリとなる件りで、いつかこの噺家で人情噺を聴いてみたい、と思わせるものがありました。
このホロリとなる件りが、「八五郎出世」のミソですね。
仲入り後のもう一席は、妾宅に押し入った泥棒が . . . 本文を読む
旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で開催中の、「日光道中-江戸の旅・近代の旅」 展を見ました。
日光を訪れる人々のことを、地元では「来晃(らいこう)」と言うのだそうで、字をよく見たら、「晃」は日と光を上下でくっつけて出来ています。
「来ル日光で来晃、か。ははあ、うめェこと考ェやがったな…」
時代は下って、かつて東京から日光への特急列車は、国鉄(JR)と東武鉄道とが長年にわたってお客を奪い合ってきま . . . 本文を読む