新居関所より、埋め立てられたかつての湖岸を東へ500㍍ほど行った「新居町駅」から、渡し賃のつもりで190円の切符を買って東海道本線に乗り、
浜名湖を渡って次の「弁天島駅」で下車。
ここはかつて湖岸と陸続きでしたが、前回の浜名橋跡のところでもお話しした明応の大地震(1498年8月24日)によって分断され、島となったものです。
弁天島の名称の由来は、すばり弁天神社があるためですが、
か . . . 本文を読む
「浜名旧街道」と名付けられた道を行くこと約30分、旅人と見ると湯茶を勧める立場(休憩所)の人の様子を、或る洒落っ気のある殿様が、
『立場立場と水飲め飲めと 鮒や金魚じゃあるまいし』
との戯歌(ざれうた)を詠んだとの話しが伝わる“加藤立場”跡を過ぎた先には、数十年前に害虫によって枯れた後、改めて植栽された松並木が、海側に1㎞以上にわたって続いています(↑写真)。
やがて旧道は橋本西信号で国道 . . . 本文を読む
二川宿の先で合流した現道の国道1号線は、点在する物流倉庫や中小工場に沿って源吾坂、三ッ坂と緩やかな坂を上って行きますが、かつてはあたりに人家のない松並木で、
“女を口説き落として連れ込むには究竟の場所である”
と記した道中記もあったほどだとか。
沿道にまだ残る広々としたキャベツ畑を見ると、なるほど、と思わなくもありません……。
さて、国道を行くこと約45分、一里山信号で左に分岐する県道1 . . . 本文を読む
東急東横線の武蔵小杉駅で下車する用事があったつひでに、駅直結の東急スクエア四階の展望デッキに寄ってみる。
ちゃうど東急線の線路の真上に位置してゐるここには、“名車”9000系の側面が、壁に用ゐられているのだ。
しかしその光景に、私はなんとも言へない寂しさを覚える。
電車は、走ってナンボ。
線路を疾走してこそ、値打ちもあり、また輝きも増す。
これではただの、切り刻んだ“骸(むくろ)”の . . . 本文を読む
吉田本陣跡を過ぎ、曲尺手町など、いかにも昔を窺わせる町名を行く枡形を何カ所か過ぎ、やがて歩道に復元模型が置かれている東惣門跡に出ます。
ここが東八町信号の五叉路で、東南に分かれていく国道1号線(↑写真の右方向)が、かつての東海道。
そのまま国道の歩道を四十分ほど行き、殿田橋手前で旧道は左に分かれます。
ようやく国道の騒音から解放され、ホッとしながら飯村(いむれ)南地区の道をまっすぐ十五 . . . 本文を読む
神奈川県立青少年センターホールへ、「かながわ こども民俗芸能フェスティバル」を観に行く。
先月に楽しく観た「菊名の飴屋踊り」からは「子守」と「笠松峠」が上演され、民俗芸能は“土”と不可分の関係にあることを思ふ。
王朝装束も厳かな大山阿夫利神社の「倭舞」「巫女舞」は祭礼の奉納神事であって、民俗芸能とはちょっと性格が違ふやうな気もするが、ピンと筋の通った舞ぶりに、他とは一線を画した美しさを見る . . . 本文を読む
松並木を過ぎると、やがて道の両側にまたがる醤油工場が見えて来て、御油宿に到着(上段写真)。
赤坂宿からは十六町(約1.7㎞)、歩いて15分程の距離。
。
この先の、城下町である吉田宿の堅苦しさを嫌った上りの旅人たちがこの宿まで足を伸ばし、また遊女も多く、それは賑わったそうですが、数十年前まで面影を留めていた当時の町並みも、現在ではほとんどが新しい家に建て替わっているか、
更地(売地)にな . . . 本文を読む
藤川宿を出てすぐ国道1号線に合流して十分ほど行くと、旧道は左に再び分かれて舞木町を通り(上段写真)、町外れでまた合流してその先の本宿町で、松並木と道標に従って右に逸れて行きます。
めざす赤坂宿は、かつてはこの本宿町にあったと云われ、
現在の町並みからいっても、そうかな、と思わせるものがあります。
しばらく行って「はうぜうじばし」を渡ったすぐ右手には、法蔵寺という古刹が。
ここに . . . 本文を読む
若宮町で二十七曲の最後─江戸からでは一番目の曲がり角─を右折して岡崎城下を後にすると、緩い坂を下って国道1号線と並行しながら、筋違橋を渡ります。
このあたりは幹線道路が騒々しく交差する場所でありながら、昔ながらの松並木が、少しばかり遺されています(上段写真)。
東名高速道路の岡崎ICを地下道でくぐり抜けて大平町に出、しばらくしてから左に分かれる旧道へ入って行くと、
住宅地のなかに「大平 . . . 本文を読む
松並木を過ぎ、牛田町から来迎寺(らいごうじ)町に入ると、「来迎寺一里塚」が東西に遺っています。
上の写真は西側で、東側は道から少し奥まった場所、
ちょうど公民館の真裏に、隠れてしまっています。
在原業平ゆかりの地、八ツ橋にある無量寿寺への道標を過ぎ、今本町に入ると、昔の松並木が岡崎市との境界線付近にあたる国道1号線との合流地点まで、
数キロに渡って断続的に遺されています。
安 . . . 本文を読む
桶狭間古戦場跡を過ぎ、再び旧道へと入って約40分、国道1号線へ再び合流する手前に、形はだいぶ崩れていますが、「阿野一里塚」が東西に残っています。
旧道は黒部川の手前で再び左に分かれ、昔は真ん中から西は板橋、東はその上に土を盛り固めた土橋だったと云う「境橋」を渡り、国道1号線を地下道でくぐり抜け、反対側に続く旧道へ出ると、
落ち着いた風情の今川町を通って行きます。
その先の今岡町 . . . 本文を読む
名古屋中環状線を渡って右折すると、旧道はやがて小高い森に沿って進んでいきますが、この森は戦国時代の砦跡と云われています(上段写真)。
県道36号線を越えると古い民家が目に付くようになり、やがて大きく左に曲がると、
鳴海宿に到着。
↑写真右手の山車蔵のあたりが、かつての本陣跡だそうです。
しばらく進んで枡形を通って宿場を抜け、
曽根地区にわずかに残る松並木を通り、
名古 . . . 本文を読む
角の酒屋から伸びている旧道を、国道247号線を横断した先で道標に従って右に折れるのが東海道(上段写真、赤線矢印)、直進すると国道1号線の向こうに、宮の宿の語源である熱田神宮の大鳥居が見えます。
伊勢神宮に次ぐ格式を有し、三種の神器のひとつ「草薙の剣」をおさめている熱田神宮にはもちろん参拝し、
道中の安全を祈願。
その後は再び旧東海道へと戻り、かつて宿場だった宮の町を通って行きます。
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七里の渡しは、鎌倉時代には既に「古渡(ふるわたり)」と呼ばれて存在しており、慶長六年(1601年)に徳川家康が宿駅制度を定めたとき、唯一の海路として東海道の正式ルートになりました。
しかし、湾に注ぐ揖斐川、長良川、木曽川からの流砂などのため水深が浅く、干潮時には沖合いを通るため十里の航程となり、また時代が下るにつれて沿岸が埋め立てられたので、ルートは一定していなかったようです。
現代の地図に当 . . . 本文を読む
三滝橋から約十分、今度は海蔵川を渡って「三ツ谷一里塚跡」の碑を過ぎ、国道1号線に合流して羽津町で左手に再び分かれると、ここから桑名宿の手前まで、町中の住宅地をひたすら進んで行くことになります(上段写真)。
途中、八田地区では先に見た泊地区と同じく、かつてここが松並木であった時代から唯一変わらずに佇む一本松──かつての地名に引っ掛けた「川原須(かわらず)の松」、
そしてその先には、電球ながら . . . 本文を読む