この木戸跡から「神橋」までの約2㎞にかけてのなだらかな坂道に続く東照宮門前町が、かつては「鉢石(はついし)宿」と云う名の日光道中最後の宿場であったことは、今回の旅にあたって資料漁りをするまで、実は全く知りませんでした。
「鉢石」の語源は、昔この地に住んでいた芝田善平と云う人の宅地に、お鉢を伏せた形に似た石があったから、とのこと。
その石は現存、中鉢石町の日本生命の建物と三ツ山羊羹本舗のお客様駐 . . . 本文を読む
大谷川沿いに約3㎞行った先の七里地区で、道は左へ折れていましたが、かつての道筋そのものは住宅地となっていて消滅しているため、資料の地図を参考にそれに近い道筋を通ると、東武日光線の暗渠が前方に現れ(上段写真)、これが当時の道筋の位置の名残りなのだろうとここを抜けると、資料にある通り、志渡淵川(しどぶちがわ)に架かる筋違橋(すじかいばし)の袂で旧日光道中の杉並木に合流↓。
ここから数百メートル . . . 本文を読む
瀬川一里塚から1.2㎞の十文字地区には、戊辰戦争の前哨戦がこの辺りで勃発した際、官軍が放った鉄砲玉が当たった跡と云う「砲弾打込杉」が、現在も道の右手に残されています(上段写真)。
その生々しい傷痕は、自分が生まれる以前にこの美しい杉並木で、そういった凄惨な現実があったという事を認識させ、自ずと襟を正したくなるものがあります。
杉並木道はそのまま最後の宿場、鉢石(はついし)宿の入口まで続いてい . . . 本文を読む
幕末・明治期の古写真に見る景色そのままの美しい杉並木を歩くこと13分、三十四里目の「瀬川一里塚」が、東西に健在。
杉並木に入ると、これも“神領”の成せる業なのか、脇を行く車道の騒音もどこか遠い世界の音のように聞こえてくるのですから、不思議なもの。
そして、この美観の保存整備に現在も携わっておられる方々に、心から感謝。
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もともとは“今村”という地名であったのが、宿場として成立した頃から近隣住民が次第に移住してきて市も開かれるようになり、大いに賑わったので今市宿と改めたと云うこの旧宿場町、そのメインストリートは現在、あまり元気がない様子(上段写真)。
二宮尊徳ゆかりの地でもあるこの旧宿場町の傍らに、無料で試飲が出来る「いまいちの水」というものを発見。
涌き水かと思ったら水道水とのこと、表記が平仮名のため、地 . . . 本文を読む
さくらすぎから5分後、ここも東西共に現存する「七本桜一里塚」に。
上段写真が西塚で、中段写真↓が東塚。
東塚の根元は腐ったために写真のように大きな空洞が出来ていて、大人が4人ほど入れることから、「並木ホテル」とも呼ばれているそうですが、ネーミングにセンスが無いと言うか、正直ピンきません。
七本桜一里塚を過ぎて少し行くと、東武日光線の高架が“神領”の杉並木を堂々と横断する衝撃的光景を目撃 . . . 本文を読む
一里塚から20分ほど行った「シドミ原」バス停の手前で、ようやく車道は杉並木道の西側へと外れ(上段写真)、ここから先は地面も土の、古えそのままの歩行路となります。
杉並木は約700㍍先の日光市森友272番地あたりで一度途切れて国道119号線に合流した後、約600㍍程行った森友交差点から復活。
国道はここから再び西側へ分岐し、次の今市宿入口まで、特別保護区域の見事な杉並木を堪能しながら歩くこ . . . 本文を読む
特別保護区域の杉並木を抜け、大沢交差点で再び国道に合流した先が、かつての大沢宿↑。
郵便局を過ぎた先で旧宿場を抜けると、太い幹も雄々しい特別保護区域の杉並木道が再び続きますが、このエリアは車道の占有で、歩行者は並木の外側を歩かされることに。
かつては人が歩いていた道を、我が物顔で騒走する車に杉の健康を案じつつ、外側の草地を1㎞ほど行くと、やがて目の前に一里塚が。
杉木立に紛れるようにして東西 . . . 本文を読む
日光市に入って約2㎞、25分後に国道119号線の現道は、大沢町手前で二手に分かれます↑。
左へ大きくカーブするのが現国道で、直進するのは旧国道、つまりかつての日光道中。
江戸時代には、ここから先は東照宮の“神領”とされ、また現在もこれより先の杉並木は国の保護区域、或は特別保護区域となっており、そこを避けて通るため、道を新たに敷設したのでしょう。
ここから大沢宿手前までの約1㎞は車輌通行禁止 . . . 本文を読む
上徳次郎宿を抜けて600㍍ほど行ったところに「一里塚」バス停があり、そこには江戸から三十里目「石那田(いしなた)一里塚」の東塚の東塚↑が遺されています。
ここからは、すぐ先の仲内という地区を除いて、再び本格的な並木道が続きます。
一里塚より歩くこと約50分、上小池町で左手に「トリコロール」と云う洋菓子店がある並びに庚申塔や祠の建つ草むらがあり、そこにいわくありげな盛り土を発見。
一里 . . . 本文を読む
次の中徳次郎(なかとくじら)宿は、下徳次郎宿より400㍍程先の左カーブから現在の徳次郎交差点(上段写真)あたりまでのエリアで、宿場は殆ど隣接していました。
中徳次郎宿から右手にある「智賀津(ちかつ)神社」の社頭には、樹齢700年と推定される高さ40メートルの夫婦欅が聳え、
栃木県の天然記念物に指定されています。
智賀津神社のすぐ傍、現在では道の中央に整然と並んでいる「徳次郎六本杉」を . . . 本文を読む
下徳次郎(しもとくじら)宿に入る約1㎞手前には、江戸から二十九里目の「高谷林一里塚」が、ここも東西に遺っていますが、東塚(上段写真)は保存整備が施されているのに対し、西塚(中段写真)は何故か放置状態となっています。
一里塚から約10分後、右手にある富屋小学校から先が下徳次郎宿で、
杉並木もここで一度終わります。
さて、宿場名の“徳次郎”は現在、かつての上・中・下の宿場を一つにまと . . . 本文を読む
宇都宮宿の追分から15分後、松原3丁目で国道119号線と合流、さらに約30分後、宮環上戸祭交差点を過ぎると、ここより終点の鉢石宿まで現存する杉並木が始まります(上段写真)。
約10分後、文星芸術大学前に、江戸から二十八里目の「上戸祭(かみとまつり)一里塚」が、東西ペアで遺っています↓。
この一里塚から600㍍ほど行った野沢町で杉並木は一度途切れ、釜川と云う細い川を渡った先、緩い上り坂 . . . 本文を読む
やがて伝馬町4丁目で宇都宮地方裁判所に突き当たると鈎の手に右折、本陣はその先右手にありました(上段写真)。
宇都宮のかつての名物は、晒木綿に干瓢、団扇、それに紙煙草入れだったそうですが、現代はやはりコレでしょうね。
さて、本陣の前が奥州道中との追分、日光道中はここを左折します(奥州道中はそのまま直進)。
つまり、現在の宇都宮中心街とは全く関わることなく小幡地区と泉町地区の間に伸びる道 . . . 本文を読む
さて雀宮宿を発ち、次は城下町の宇都宮宿を目指します。
雀宮宿から約3㎞のあたりにはかつて一里塚があり、その場所は現在「一里」と云う信号名とバス停名に残されています(上段写真)。
一里信号から900㍍ほど行った西原信号で、国道は4号線と119号線に分岐、日光道中はここから国道119号線に乗り換えてJR日光線の線路を越えて宇都宮市不動前13-54の三叉路まで進み、ここで左に入って国道から分かれ . . . 本文を読む