昨日ラジカセが壊れてしまい、新しいのを買ってきた。時々深夜に目を覚ました時
に聽くNHKの「深夜便」には欠かせない。やはり、老人にはラジオがないと不便で
必需品だ。僕らの世代は、ラヂヲ(昔はこう書いた)というと真空管ラジオが懐かし
い。とくに終戦の日天皇陛下の"玉音”放送が聴きとりにくく,手でラジオの箱を叩
いた日のことを想い出す。
ラジオは昔は貴重品であった。一家には一台で、たいていは茶の間の箪笥の上に
置いて夕食時、一家全員で聴いたものだ。僕の個人的な想い出は、昭和28年、父
母から離れた最初の赴任地で、仕事を終えて下宿に帰る道で聞いた「笛吹童子」の
あのメロディだ。今でも耳に残っている。
ラジオが箱型からトランジスタに変わり、市場に出回ったのは昭和32年だった。ソニ
ーのその時の値段価格は13800円だった。たしか当時の大学出の初任給は10000
円ぐらいだから随分高かった。その後ラジオカセットの時代に入り、国産初の製品が
売りに出たのは昭和43年である。その頃、当時の若者の間ではラジオの深夜放送
が人気だった。”かめさん”こと亀渕昭信がニッポン放送の「オールナイトニッポン」に
出演していたのは昭和39年から48年までだった。先日自殺した加藤和彦の”帰って
きた酔っ払い”(42年)”悲しくてやりきれない"(43年)”白い色は恋人の色”(44年)も
この時代でオーバーラップしている。
あの時代、僕はすでに30代で、深夜放送は聞いたことはないが"帰ってきた酔っ払い”
などのアングラ音楽には強い印象を受けた。あれから40年、当時の若者もすでに50代
から60代。鳩山内閣閣僚の大半はこの世代である。光陰矢のごとしだ。
に聽くNHKの「深夜便」には欠かせない。やはり、老人にはラジオがないと不便で
必需品だ。僕らの世代は、ラヂヲ(昔はこう書いた)というと真空管ラジオが懐かし
い。とくに終戦の日天皇陛下の"玉音”放送が聴きとりにくく,手でラジオの箱を叩
いた日のことを想い出す。
ラジオは昔は貴重品であった。一家には一台で、たいていは茶の間の箪笥の上に
置いて夕食時、一家全員で聴いたものだ。僕の個人的な想い出は、昭和28年、父
母から離れた最初の赴任地で、仕事を終えて下宿に帰る道で聞いた「笛吹童子」の
あのメロディだ。今でも耳に残っている。
ラジオが箱型からトランジスタに変わり、市場に出回ったのは昭和32年だった。ソニ
ーのその時の値段価格は13800円だった。たしか当時の大学出の初任給は10000
円ぐらいだから随分高かった。その後ラジオカセットの時代に入り、国産初の製品が
売りに出たのは昭和43年である。その頃、当時の若者の間ではラジオの深夜放送
が人気だった。”かめさん”こと亀渕昭信がニッポン放送の「オールナイトニッポン」に
出演していたのは昭和39年から48年までだった。先日自殺した加藤和彦の”帰って
きた酔っ払い”(42年)”悲しくてやりきれない"(43年)”白い色は恋人の色”(44年)も
この時代でオーバーラップしている。
あの時代、僕はすでに30代で、深夜放送は聞いたことはないが"帰ってきた酔っ払い”
などのアングラ音楽には強い印象を受けた。あれから40年、当時の若者もすでに50代
から60代。鳩山内閣閣僚の大半はこの世代である。光陰矢のごとしだ。