戦後インドネシアに残留した元日本軍関係者の会が今年30周年を迎えたと新聞に
出ていた。現在もまだ4人の方が健在だという。昔、40数年前、僕がジャカルタに
勤務していた当時は、推定で100名を越す人が日本の商社の仕事を手伝っており、
僕の事務所をかねたホテルの部屋へもよく遊びに来ていた。
戦後インドネシアに残留した元日本兵関係者は、インドネシアと国交が樹立した後
の昭和39年度の外務省編「インドネシア便覧」によると、240名だが、残留後インドネ
シアの独立戦争に参加して犠牲になったり、政府の呼びかけで帰国したり人をいれ
ると700位だといわれている。そのうち半数近くが、北スマトラ(アチェを含む)で軍
を離脱した人たちである。中でも憲兵が多い。現在、残留者の会の会長をしているサ
ントソ衛藤君の父親もメダン近くのシアンタル憲兵分遣隊に勤務していた。
スマトラに駐屯していた憲兵は第25軍に属していたが、第25軍憲兵は大東亜戦争の
緒戦、ペナン(マレーシア)攻略戦で華僑を虐殺したとの理由で,戦後すぐ連合軍(英国
軍)から指名手配された。この情報に基づきスマトラにいた憲兵は全員、隊の命令で
軍を離脱した。僕の知人の長谷川豊紀さん(故人)もその一人で、離脱後スマトラ各地
を放浪した後小舟でマラッカ海峡を渡り、タイから昭和23年に帰国している。彼はその
体験を「スマトラ無宿 虎憲兵潜行記」(叢文社 昭和57年)で書いているが、この本の
中にサントス衛藤君のお父さんも中国人の料理人に変装して登場してくる。
戦後の連合軍戦犯裁判では、攻略戦時、ペナンにいたというだけで35人の憲兵が起訴
され20人が死刑に処せられている。
出ていた。現在もまだ4人の方が健在だという。昔、40数年前、僕がジャカルタに
勤務していた当時は、推定で100名を越す人が日本の商社の仕事を手伝っており、
僕の事務所をかねたホテルの部屋へもよく遊びに来ていた。
戦後インドネシアに残留した元日本兵関係者は、インドネシアと国交が樹立した後
の昭和39年度の外務省編「インドネシア便覧」によると、240名だが、残留後インドネ
シアの独立戦争に参加して犠牲になったり、政府の呼びかけで帰国したり人をいれ
ると700位だといわれている。そのうち半数近くが、北スマトラ(アチェを含む)で軍
を離脱した人たちである。中でも憲兵が多い。現在、残留者の会の会長をしているサ
ントソ衛藤君の父親もメダン近くのシアンタル憲兵分遣隊に勤務していた。
スマトラに駐屯していた憲兵は第25軍に属していたが、第25軍憲兵は大東亜戦争の
緒戦、ペナン(マレーシア)攻略戦で華僑を虐殺したとの理由で,戦後すぐ連合軍(英国
軍)から指名手配された。この情報に基づきスマトラにいた憲兵は全員、隊の命令で
軍を離脱した。僕の知人の長谷川豊紀さん(故人)もその一人で、離脱後スマトラ各地
を放浪した後小舟でマラッカ海峡を渡り、タイから昭和23年に帰国している。彼はその
体験を「スマトラ無宿 虎憲兵潜行記」(叢文社 昭和57年)で書いているが、この本の
中にサントス衛藤君のお父さんも中国人の料理人に変装して登場してくる。
戦後の連合軍戦犯裁判では、攻略戦時、ペナンにいたというだけで35人の憲兵が起訴
され20人が死刑に処せられている。