「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           日支事変と銃後の小国民

2011-07-07 06:03:50 | Weblog
昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に銃砲が撃ち込まれ日支事変が始まった。僕が小学校に入学してまもなくの頃だが、まったく記憶がない。前年の2・26事件や4年後の大東亜戦争が勃発した日のことはよく覚えているのに何故なのだろうか。後年当時のことを調べて見たら、日本人の多くは盧溝橋の戦火は単なる「事変」で終わり、数年間も中国全土に及ぶ「戦争」に拡大するとは思っていなかったようだ。新聞の扱いも小さい。

しかし日支事変は、その後、宣戦布告のない本格的な戦争となり、僕ら子供たち(小国民)もいやようなしに戦争に巻き込まれ、その影響下に置かれるようになった。僕の一家からは一人も出征兵士は出していないが、町内から入隊する人が出ると、僕らは学校の命令で行列して歓呼の声で駅まで送った。戦火が激しくなり、戦死者が多くなると「海行かば」を歌って駅までご遺骨を出迎えた。

子供の遊びにも”戦争ごっこ”が流行し、弱いものはいやいや支那兵の捕虜にされて洋服を後ろ前に着せられて数珠繋ぎにされた。漫画には蒋介石のハゲ頭が描かれ、ボロボロの青龍刀(中国の刀)が書かれたりした。僕は今でも中国語で”イ、アル、サン,スウ”と10まで数えられるし、なぜか”マンマンデイ”(ゆっくり?)とか”マーラカピー”(馬鹿者?)といった言葉を覚えている。

そのころ銃後の女の子の間に流行したまりツキ歌に「支那の子」というのがあった。偶然僕の親友の妹さんが、4番まで全部覚えていたので紹介しよう。
               ♯ 「支那の子」
       支那の町の支那の子 親のない子はただ一人 売られて行きます上海へ
       父は遠き満州で 馬賊のために殺されて 今では冷たい土の中
       母は海に飛び込んで 鯨のエサになりました 坊やよい子だ寝んねしな
       明日の夢は何の夢 でんでん太鼓に笙の笛

僕はこの歌の元歌が中国の江南地方に伝わる民謡「太湖船」であることをうかつにも知らなかった。ごく最近7月1日のNHKの昼の番組金曜バラエティで古筝の演奏にのって「支那の子」のメロデイが流れてきて驚いた。あの戦争の時代、誰がこの歌を日本に持ち込み、こんな歌詞にしたのか。今でも僕の耳には横丁で遊ぶ少女たちの歌声が聞こえてくる。