「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         伊能忠敬の師弟愛と老後の生きざま

2011-07-13 06:01:38 | Weblog
浅草の寺町の一角にあるわが家の菩提寺、源空寺にお盆の墓参りに老妻と墓参りに出かけた。東京は梅雨明けを待っていたかのように、このところ連日の猛暑である。80歳と78歳の二人にとっては厳しい暑さである。寺町は上野と浅草の中間で、今の住所は台東区東上野だが、戦前は浅草区清島町と呼ばれた。明暦3年(1657年)の”振袖火事”で江戸が灰燼に帰したさい、幕府の命令で湯島からの地に移ってきた。

ご先祖のお墓の近くに、わが国最初の実測地図を作成した伊能忠敬のお墓が,師、高橋至時(号名、東岡)の隣に並んである。伊能忠敬は元々千葉県の九十九里浜の酒造家だったが、五十歳をすぎてから家督を子供に譲り、一年発起して若いときから関心のあった天文学を学んだ。その師が高橋至時であった。時に忠敬51歳、至時32歳であった。後年、忠敬は実測地図を作成し、その名も知られるようになったが、今自分があるのは、師、至時のお陰であると、遺言に自分の骨を至時の隣に埋めて欲しいと書いた。この話は美しい師弟愛として戦前の終身の教科書にも紹介されており、僕もこれを学んだ。

伊能忠敬、高橋至時お二人のお墓に手を合わせて、僕は改めて忠敬の生きざまに共感した。忠敬が生きた江戸時代は。封建社会であり、今のように自分の好きなように学問も出来なかった。たまたま忠敬は経済的に恵まれていたとはいえ、人生50歳の時代である。ご隠居が新しい学問に挑戦するといことは大変なことだったと思う。

超高齢化時代である。大方のサラリーマンは60歳で定年を迎え年金生活にはいるが、日本人の平均寿命は80歳近くまで伸び、20年間の余生はある。忠敬の一生を調べると、忠敬が「大日本沿岸輿地図」作成のため旅に出たのは55歳で、それから17年かけて73歳で完成している。今の時代にあてはめてみても、ものすごい老人パワーだ。世の老人たちもがんばりましょう。