74年前の昭和12年(1937年)7月29日、北京郊外の通州で民間人を含む日本人居留民260余名が当時の支那軍保安隊によって虐殺されている。日支事変の発端となった盧溝橋事件から3週間後の出来事で、惨殺された日本人の多くは北京から避難してきた人たちであった。
僕の先輩の安藤利夫さん(故人)もたまたま、この通州事件に遭遇したが、九死に一生を得て生き残った数少ない日本人であった。安藤さんは当時同盟通信(現在の共同通信)の特派員として北京にいたが、北京の情勢が悪化したため、一般邦人と共に通州に来ていた。戦後安藤さんは、その時の支那軍保安隊の残酷さを文芸春秋臨時増刊号「昭和の35大事件」(昭和30年8月発行)に書いている。この事件が契機で、日支間の戦争は本格化し、戦火は中国全土に拡大していった。
しかし、今や通州事件といっても特別な研究者以外知る日本人少なくなってきた。多分歴史の教科書にも登場してこないだろう。中国の現代史も無視しているに違いない。これに反して日本では、中国の史観にたった南京虐殺事件が正当化され独り歩きしている。
安藤さんは大東亜戦争勃発時は、同盟通信の蘭印バタビア((ジャカルタ)支局長をしていて、開戦と同時に蘭印当局に逮捕され、他の在住邦人と一緒に豪州の砂漠地帯のラブダイに送られ、1年間抑留生活を送っている。その後、戦争中も日本軍政下のジャカルタにいてどちらかといえば、インドネシア通として知られている。
僕もインドネシア問題について安藤さんから教えを受けた一人だが、通州事件や南京陥落当時の中国についてはお聴きするチャンスがなかった。今思うと残念なことであった。
僕の先輩の安藤利夫さん(故人)もたまたま、この通州事件に遭遇したが、九死に一生を得て生き残った数少ない日本人であった。安藤さんは当時同盟通信(現在の共同通信)の特派員として北京にいたが、北京の情勢が悪化したため、一般邦人と共に通州に来ていた。戦後安藤さんは、その時の支那軍保安隊の残酷さを文芸春秋臨時増刊号「昭和の35大事件」(昭和30年8月発行)に書いている。この事件が契機で、日支間の戦争は本格化し、戦火は中国全土に拡大していった。
しかし、今や通州事件といっても特別な研究者以外知る日本人少なくなってきた。多分歴史の教科書にも登場してこないだろう。中国の現代史も無視しているに違いない。これに反して日本では、中国の史観にたった南京虐殺事件が正当化され独り歩きしている。
安藤さんは大東亜戦争勃発時は、同盟通信の蘭印バタビア((ジャカルタ)支局長をしていて、開戦と同時に蘭印当局に逮捕され、他の在住邦人と一緒に豪州の砂漠地帯のラブダイに送られ、1年間抑留生活を送っている。その後、戦争中も日本軍政下のジャカルタにいてどちらかといえば、インドネシア通として知られている。
僕もインドネシア問題について安藤さんから教えを受けた一人だが、通州事件や南京陥落当時の中国についてはお聴きするチャンスがなかった。今思うと残念なことであった。